学誠住職について
1966年福建省仙遊県に生まれました.1982年定海長老のもとで剃度(ていど)し、圓拙(えんせつ)老法師(以後圓老と称す)について学んでいます.1991年中国仏学院において修士学位を取得.2007年にはタイのチャラロンコン仏教大学より教育行政学名誉博士学位を授与される.2010年にバングラディシュのアティーシャ大師平和金賞を受けています. 現在、中国人民政治協商会議常務委員会委員、中国仏教協会駐在副会長(会長補佐の意)、2011年に北京師範大学宗教と人文高等研究院副院長、中国仏教協会機関誌『法音』の編集長など5つの任務と、福建莆田(ほでん)広化寺(こうかじ)、陝西省扶風法門寺(ふふうほうもんじ)、北京龍泉寺の住職を担っています. 修学のあゆみ 学誠法師は、1966年8月福建省仙遊県に生まれました.幼少のときに『玄奘大師伝』を読み、「如来の仏法を継承し、仏法の光を広く輝かせる」という 玄奘大師の願いと法を求めるために西へと向かう精神に深く感銘を受けました.このことがきっかけとなり、1982年2月に出家を決心した学誠法師は、莆田広化寺に定海長老(現インドネシア大乗僧伽会会長)のもとで剃度し、圓老(前中国仏教協会諮問委員会主席、1997年 円寂)について修学を始めました.圓老は過去に弘一(こういち)大師や印光(いんかん)大師と近しく付きあいを深め、戒律を守り、念仏を唱えることで、誠実且つ謙虚に学び続けました.圓老は、勤労、勤学、持戒(じかい)、中道について学誠法師を厳しく指導しました.その後学誠法師は1984年中国仏学院に入学し、1988年 には修士課程に入り、主に法相唯識学の研究を行います.その間、学誠法師は持戒を厳しく続けながら、勉学に励み、毎日「大悲咒(だいひしゅう)」を百遍唱えました.当時の中国仏教協会会長、兼中国仏学院院長の趙朴初(ちょうぼくしょ)居士から絶賛を受け、彼の目にとまることとなります.そして、1989年莆田広化寺の推薦で、学誠法師は23歳にして、住職になっています.1995年に福建仏学院院長に選ばれました. 学誠法師は、三系(漢伝仏教、蔵伝仏教、南伝仏教のこと)融合、八宗併弘(8つの宗派を同時に広めること)、漢伝仏教の修学体系の設立を唱え、「僧林は学院化、学院は僧林化、修学は一体化、管理は科学化する」という理念を掲げています.「志、道、徳、才、学」を僧伽(そうぎゃ)の教育の基準としています.学誠法師は自ら福建仏学院で教壇に立ち、学僧達の広化寺の法会活動や執事業務などを管理監督します.広化寺の戒律の制度のもと、半月ごとに戒律の読誦、法会の開催、仏七(7日間集中修行)、仏学クラスの開設、1996年、建国(中華人民共和国成立)後、初めて108日にわたって規範にしたがって戒律を伝授していました. 長い間、学誠法師は福建仏学院と広化寺の仕事をして、かたわら三蔵の研究に励んでいます.さらに国内外の高僧大徳を訪ね、広化寺に招き、僧俗のご指導を願います.そして、信仰、道風、学制といった人材育成などについて考えた結果、 「平淡な言行で人生を語る――弘一大師の青年仏教徒が注意すべき4つの項目」を読み返しての感想」、「現代僧林の学修生活の傾向」「僧尼の受戒制度-今昔論」、「人間仏教思想の愚見」、「仏教の人材育成雑談」、「出家者達の素質教育徹底の必要性」などを雑誌『法音』に文章を発表しました. 趙朴初老(以後朴老と称す)は広化寺を視察した折、この寺院を詩を詠んで称えました.「己に対しては厳しく律し、物事への接し方は柔らかく、学修は門を出ずとも、名は遥かに届く.いかにして道場を作るか、ここがその答えだ」と.朴老が2000年に円寂したことに学誠法師はひどく悲しみ、哀悼用の対聯にこのように書いた.「感慈爱逾常、栽培有加、愧未报答涓埃、每念音容犹涕泪;怅南北修阻、近侍无多、忽得传来噩耗、那堪异地最凄凉(以下翻訳:先生の慈愛を受け、ここまで育てていただいたのに、私はこの恩に少しも報いることが出来ず非常に恥ずかしい.先生の声と姿を思い出す度涙が溢れる.先生と私のいる場所が違うので、おそばで十分にご奉仕ができなかった.突然にお亡くなりになったと知り、異郷にいる私は寂しさが込み上げてきてどうし ようもない.」 |
