知恵のある包容について

中国仏教協会常務理事・
中国仏学院副院長兼教務長
宗性

「六波羅蜜」とは、大乗仏教での菩薩道を実践する6つの徳目を指し、布施波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・般若波羅蜜などが含まれる。これらの6つの徳目の完成により、大乗仏法の行者は無上仏道を成就し、究竟円満なる生命に到達できると言われている。従って、「六波羅蜜」は大乗仏法の修行の中では核心的な修持原理及び方法として尊ばれ、広く大乗仏教の信者から重視されている。

「六波羅蜜」のうち、どれでも非常に豊富な内容を持っているが、小論では「忍辱波羅蜜」の一部の内容の中に含まれている平和思想とその実践について分析していきたい。唯知仏法の根本的な経典である『解深密経・地波羅蜜品』に書かれてあるように、「忍辱波羅蜜」は安受衆苦忍・耐他怨害忍・諦察法忍[ 『解深密経』卷四に「忍三種者:一者耐怨害忍,二者安受苦忍,三者諦察法忍」とある。『大正藏』卷16,705页下を参照。また、『瑜伽师地論』卷48には右の内容に関するより詳細な説明がある、ご興味のあるからご参照ください。]という三つの部分からなると仏陀は開示してくださった。簡単に説明すると、安受衆苦忍とは自然界からの災害や苦難に対してただしく向かい合い、心はその邪魔をされないことを指す;耐他怨害忍とは人から阻害や妨害をされたり、摩擦を起こされた時、寛容・包容を心に持つことである。そして諦察法忍とは長期にわたって仏法義理を思惟し、最終的には通達し、明了に至ろうとする心を持つという意味である。前の二つは人間と自然界から受けるインパクトに関していい、後の一つは内在の、思想的な束縛と関わっている。

「忍辱波羅蜜」の思想・精神を正確に実践できるか否かは、「忍辱波羅蜜」の意味を如実に認識できるかどうかによるであろう。「忍辱」という言葉は中国語の字面は、「忍」は我慢・抑える、「辱」は屈辱・侮辱の意味がある。従って、「忍辱」はしばしば外部からの侮辱に対して自分を抑える心理であると理解され、悔しさに満ちた不快な心理と勘違いされやすい。しかしこれだと仏法が唱える「忍辱波羅蜜」の境界と全く異るものになる。それ故、一般大衆及び仏学の初心者は「忍辱」をほぼ「ひたすら我慢する」という臆病と理解してしまう。

仏法から見れば、「忍辱波羅蜜」という修持では、「忍辱」は外面に現れた特徴で、「波羅蜜」こそ目的で、内在的な心理状態である。「波羅蜜」とはサンスクリットのpāramīの音訳で、「度」とも訳されている。「忍辱」という修持を通して、煩悩の此岸から自在解脱の彼岸へ到達できるから、「度」と言われている。

仏法の視点から見ると、人・自然界からの阻害でも、内在思想からの障害でも、人間という個体に不快感をもたらしてしまう。しかしながら、人間・自然界や内在思想からの騒擾と障害をいかに解消し、乗り越えていくことこそが仏法の修持工夫であり、問題の中心である。「忍辱波羅蜜」の修持を通して上記の目的が達成できるかどうかは、修行者が「空性」という仏法の知恵を運用して、妨害や邪魔された人生という個体、そして人間・自然界・内在思想から来た障害そのものを観照していくことで、これらは全て仏法が掲げる「空性」の現れで、自主性のある主宰能力がない。このような観照があればこそ、「空性」の知恵の力を以って、他人・自然界・内在思想からの如何なる阻害と障害をも全て排除し、内心には邪魔や障害を乗り越えられた喜こべる状態でいられるであろう。この喜びの状態はすなわち煩悩を乗り越えて辿り着く自在解脱の彼岸である。このように、仏法にある「忍辱波羅蜜」とは、字面通りの「ひたすら我慢する」という悔しいものではなく、知恵のある包容であることを意味している。この知恵のある包容にはなにも悔しさを伴わない、喜びと安らぎの境界である。

「忍辱波羅蜜」という修持精神と境界は常に大乗仏教を修学する行者たちによって日常的な人々との関わりによく使われている。世間に生きる修行者たちは、四六時中人やものとの関わりをもたざるを得ない。そんなプロセスにおいて、人間や自然界及び内在的な思想から騒擾されたり、妨害を受けるのは免れない。修行者が異る騒擾や妨害に出会った場合、「忍辱波羅蜜」の運用が特に重要であると思われる。明代には妙葉という大師が現在の中国浙江省寧波地方のいた高僧であった。彼が編集した『宝王三昧論』[ 『禅門日誦』第142頁,清光緒二十六年(1900年),江苏常州天寧寺版。『禅門日誦』は明と清代に形成され、我国の各佛教寺院に流布されている。明清以来の出家者と在家者の必読書であり、修持の常用パンフレットでもある。]には「忍辱波羅蜜」の修持工夫を示す修行要諦が多く記載されている。例えば「処世不求無難、世無難則驕奢必起」、「於人不求順適、人順適則心必自矜」、「施徳不求望報、徳望報則意有所図」、「被抑不求申明、抑申明則怨恨滋生」などの警句があった。上記のすべては修行者が様々な騒擾と障害と向かい合う際に運用した包容の智慧が含まれ、よって騒擾と妨害を乗り越え、喜びと安らぎの満ちた「忍辱波羅蜜」を成就できると開示してくれる内容である。

「処世不求無難、世無難則驕奢必起」とは、世間に生きて、困難のなく順風満帆の人生を望まないことである、困難がなければ、貢高我慢の心が芽生え、やがて高慢この上なく、眼中人なしになり、他人を虐げる行為に繋がり、最終的に破滅の道を自ら歩んでいく。故に世間のいかなる困難に対しても知恵の心で包容すべきで、困難そのものが「忍辱波羅蜜」を成就させる糧となるであろう。

「於人不求順適、人順適則心必自矜」とは、人間関係では、誰しも自分を尊敬し、自分に従順することを望まないことである。すべての人が自分に従順であれば、傲り・自惚れの心が芽生えてしまい、井の中の蛙大海を知らず、夜郎自大という言葉があるように、自分がいつも正しいと思い上がってしまえば、前に進めなくなる。人間関係では、自分の意のままにならないことが免れない。知恵の心で受け入れれば、従順でない人は反って我々にとって「忍辱波羅蜜」を成就させる功労と恩徳の源となるであろう。

「施徳不求望報、徳望報則意有所図」とは、他人に利益を与える時、いつも褒美・賞賛ばかり求めないことである。他人に有益なことをする時いつも見返りを望むと、やがて恩着せがましくなり、損得尽くでしか動かなくなり、名誉の幻に嵌まってしまうであろう。それ故、施徳の中、知恵の心を以って受報者を尊重すれば、彼らは我々の煩悩と困惑にならず、反って「忍辱波羅蜜」を成就させる助縁となると考えられる。

「被抑不求申明、抑申明則怨恨滋生」とは、他人から誤解され、抑制される時、いつも弁明によって諒解を求めようとしないことである。なぜなら、これでは自分と他人を分別する心が芽生えてしまい、怨恨の感情が深まり、憎しみの炎が燃え上がり、反って自分の害になってしまうからである。そこで、誤解を受けても、知恵の心で観照すれば、それもまた「忍辱波羅蜜」を修持する為の殊勝な方法となるのである。

以上の妙葉大師の警句からも分かるように、古の高僧大徳は「忍辱波羅蜜」に含まれている包容の精神を、処世・待人・施徳・被抑などの日常生活に上手く運用していき、処世・待人・施徳・被抑など人生という個体に阻害と障害を円融に「忍辱波羅蜜」を成就させる生活知恵に転化させていた。

上記の収集した古徳警句に続き、妙葉大師がまた仏経に記されている「聖言量」を列挙し、仏陀時代における仏陀本人が外来の困惑に直面した時、「忍辱波羅蜜」を修持する力を如何に弟子たちに見せたのかを説明した。妙葉大師は仏陀が「鴦掘摩羅」[鴦掘摩羅の物語については、大小乗経では多少の相違がある。『雑阿含経』巻38には『央瞿利摩羅』とされ、賊であり、央瞿多羅国の陀婆闍梨迦林に居ると記載される。別訳『雑阿含経』巻1も『鴦掘摩羅』は林中の賊と記載している。『増一阿含経』巻31<力品>には、「国界有賊、名鴦掘摩、極為凶暴、殺害生類、不可称計、無慈悲於一切衆生、国界人民無不厭患。取人殺、以指為環、故名為指環。」と記載している。また、聖厳法師が『仏説鴦掘摩経』・『仏説鴦掘髻経』・『央掘摩羅経』を元に改編した物語は系統になっているので、興味ある方はご参考ください。物語は、聖厳法師著書『聖者的故事』に収録されている。]と「提婆達多」[提婆達多の物語については、『雑阿含経』・『中阿含経』・『増一阿含経』・『法華経』・『仏本行集経』・『菩薩本行経』・『摩訶僧祇律』・『大毘婆沙論』にそれぞれ記載されている。]に対して、如何に邪師に唆されて大量殺人を犯した「鴦掘摩羅」といつも仏陀に楯突く悪比丘の「提婆達多」を感化し、最終には「鴦掘摩羅」を化度して出家させ、また「提婆達多」に授記し、未来に成仏する際には「天王如来」[提婆達多比丘の未来成道の時の仏名。法華経提婆達多品には、提婆達多犯五逆罪、堕無間地獄、仏陀告諸菩薩及天人四衆、謂提婆達多往昔曾為其師、彼実非悪人、為権誡世人而作逆罪、堕於地獄、未来必当成道、号天王如来。と記載されている。]という成仏名を授けた、といった事例を挙げた。「鴦掘摩羅」を化度し、「提婆達多」に授記したことから、仏陀は「忍辱波羅蜜」を成就させて知恵のある包容の力を放つことを余すことなく我々に魅せた。これも我々を含めた后世の仏教徒たちの鑑となるに違いない。

妙葉大師が編纂した『宝王三昧論』は、明時代以前の高僧大徳の修行要諦と経験であり、明時代以来多くの中国仏教徒たちの修行方法に影響を与えてきた。これらの修行要諦は、我々現世の仏教徒たちにとっても、教訓や戒めといった重要性は変わりがない。

今日日、国際社会の中で、人間同士の間でも、人間と自然界の間でも、種族・国家同士の間でも、未曾有の摩擦と困惑に臨んでいる。これらの摩擦と困惑は、人類が平和に生存する環境に不安と見えざる災いをもたらすであろう。前文に掲示した仏法の「忍辱波羅蜜」に含まれている包容の精神は、国際社会での不安と見えざる災いを解消する方法を示すことができるかもしれない。摩擦に対してトラブルを起こさずことなく、まして暴力を暴力で対抗せず、知恵のある包容で互いの張り合いを解消し、人間社会の平和を実現させることこそが、仏法が唱える「忍辱波羅蜜」の思想であり、国際社会に貢献できる特別が知恵である。

2014年11月18日 韓国京畿道都羅山にて

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