第16回 2013年 中国・海南三亜

自然災害発生後における心の救助

中国仏教協会副会長 学誠

一、自然災害の脅威

人類が生まれたその日から、自然災害は影のようにその前進するステップについてきました。漢字の「災」は火によって家屋が焼かれるという形をしています。これは外在的な自然の力が人類の文明の成果に対する破壊を意味します。その破壊が人類の利益にひどいダメージを与えた場合、「災」は「害」と言われます。

仏教からみれば、世界は「四大」(地大、水大、火大、風大)からなっています。それで、自然災害は四種類に分けられます。つまり、地大不調——地震、土石流等の地質災害、火大不調——火山の噴火、山林の火災、風大不調——台風、ハリケーン、竜巻等の气象災害、水大不調——洪水、津波などの水文災害であります。

現代科学技術が日進月歩していく一方、自然災害は相変わらずに頻発し、しかも人口密度の增加、インフラ施設の拡大、経済生産の集中につれて、それがもたらした経済的な損失もうなぎのぼりに大規模になり、人類の生命安全は依然として厳重な脅威にさらされています。

ご周知のとおり、多くの大型施設は見えない安全上の問題を抱えています。一旦重大な天災が降りかかれば、連鎖的な災難が引き起こされやすい。例えば津波による原子力発電所の漏れ、地震によるダムの決壊、極端気象状況によるグリッドの崩壊などがあり、手の施しようがないほどです。

皆様もお分かりのように、自然災害の背後にある人的要素はますます明らかになり、大規模の経済開発が直接地域の地形や水文条件を改変し、後に威力のもっと大きい自然災害の下地を作ってしまいました。

皆様もご覧のとおり、自然災害は人類社会に対して全体的な打撃を与えています。突発的な災害に比べると、漸進的な災害が長期においてもたらす脅威はいっそう看過できないものであります。気候変動による地球温暖化、氷河の消失、海面の上昇などの現象を引き起こし、さほど遠くない未来に人類社会に致命的なダメージをもうむるでしょう。

二、災害発生後の心理的なダメージと心の救助

物や財産の損失より、人間の心に残された傷のほうがケアが必要だとされています。まったく予期できない災難によって、人々のノーマルな生活が破壊され、その心のふるさとも粉々にされました。生活面の廃墟は数年後に再建を果たされやすいのに反して、心の廃墟は一生かかっても復元できない場合さえあります。災害の救援現場にいるものの中で、直接災害に遭遇しながら生き残る者、被災地で忙しく仕事に取り組んでいる救援者、ほかの地域で救援の進展を見守る一般民衆などは、それぞれ異なる側面における心の救助を求めています。

1、恐怖心。災難が降りかかってきたとき、恐怖心が人類に湧く最も直接的な心理です。多くの遭難者は絶望と苦痛にもがきながら死んでいき、生存者の多くもさまざまな苦しみを嘗め尽くしてやっと生き残れました。特に高齢者、女性、子供、身障者などの弱者層が災難にあったときより恐怖に陥りやすいし、はなはだしい場合は重度のメンタルイルネスまで生じるのです。

恐怖心の生まれる主な原因は生命にしっかりした頼りがないからです。人生にたよれるものは大変多いです。父母、親族、先生、同窓、上司、友人そして金钱、地位、権勢、名声などはすべて頼れるものと思われました。しかし、一旦災難が瞬く間に降りかかり、生と死が目の前に切迫してくると、頑丈に見えたこれらの頼りはあっという間にカードで作られた屋敷のように徹底的に崩壊してしまいました。本当に頑丈な頼りは外的なものではなく、心の光明です。光明があれば、人間は良心に照らして悔いがなく、落ち着き払うようになれます。究極的に言えば生死というのは人生の期末試験で、今現在でなくとも、速かれ遅かれ来るものです。どのように生活すれば恥のない人生、悔いのない人生をおくれるのですか。これには生命の智慧を増長させ、人生の真諦を知る必要があります。

2、幻滅感。死神とすれ違って生き残った生存者には通常「むしろ死んだほうがましだ」という心理があります。自分の愛するもの、親しいものをすべてなくし、生き続ける意味を見失いました。相手がなくてならないほど頼りあってきた肉親、一生かかって積み重ねた財産、なんの基礎もなしに創めた事業、健康で完全な体などはかつて人生の幸福のソースであり、人生の価値の最終的な体現であったが、今となってはなにもなりません。多くの人はそれ以降現実に立ち向かう気力がなくなり、過去の生活を懐かしむことにおぼれてしまいました。

仏法からみれば、あらゆる手放しに忍びない、別れに忍びないことは一種の執着です。人間が生き続ければ、人生の価値は消えることはありません。人生は燃え続ける蝋燭のように、存在している限り、光と熱を放出し、世界に希望を送りだし、世の中にぬくもりを増やすものです。人生の最大の価値は現下にあり、その鍵はとらえかたにあります。

3、申し訳ない気持ち。人の命が消えていくのをなすすべもなく見ていることほど人間の心を痛めつけることはないでしょう。救援者が全力を尽くしたとしても、複雑な環境と限られた人手に制限され、短い72時間のうちに助けられるものはおのずと限られてしまいます。多くの場合、生存者と救援者の両方に「やる気は充分ありながら、実力がそれに伴わない」悔いにさいなまれます。肉親や友人の死を自分の過ちだと考え、自分だけが無為に暮らすことを許さない生存者がいる一方、疲れを省みず残業を重ても、自分の能力に余る現状にショックを受ける救援者もいます。

人間の力は結局限られたものです。ほかの人の不幸は自分によって作られたとは限りません。他人が苦難に会ったとき、心に惻隠の情が生まれたなら、その人の苦痛を分かち合ってあげていることになります。彼らがわれわれの心を知る事がないかもしれませんが、無駄になる功はない、われわれの心の業力が彼らの無限の生命に伴うでしょう。

4、社会を憎む気持ち。社会の大衆がニュースやメディアを通じて、罹災地の民衆が飢えや寒さに耐え忍んでいるのを目にすると、多くの人はそれを憐れむが、一部の人はこれで義憤を胸中にあふれ、偏った角度から社会問題を批判し、他人のすることに細かく注文をつけていきます。

通常、これらの指弾はあて推量で、複雑な事態を簡略化して浅はかに理解しているのに過ぎません。より多くの人が真心をもって他人に奉仕していることと、被災者のために自分の愛をささげていることに注目すべきです。個別的な「偽・悪・醜」は社会全体の「真・善・美」を覆い隠せないのです。世の中に充分な善良と愛があって始めて、最終的に醜悪や冷酷を感化することができます。

近年来、わが国は立て続けに重大な自然災害に見舞われました。中国仏教協会は全国の仏教徒に積極的に救援に参加するよう呼びかけ、罹災地に必要な物質を提供するのみならず、現地にいってさまざまなメンタルヒーリングに深く携わり、豊富な実践面での経験と良好な社会的な反響を得ました。たとえば、2008年の汶川大地震が発生した後、北京市仁愛慈善基金会が各仏教慈善組織と連合して、緊急に罹災地に赴き、速やかに「物の救援、キャンパスの再建、心の再建」という三段階の救援計画を立てました。地震発生後の一周目に、被災地における一番早い臨時教室をつくり、授業を復活しました。これはタイムリーに被災児童の情緒を安定させ、可及的早くマイナス的な心理的影響を排除しました。地震発生後の二週間以内に、4ヶ所の学堂と7ヶ所の学村を開設し、千人以上の学童に学校ができるまでの過渡期の学習環境を保障しました。そして、心理の専門家に心理干与をするように組織し、さらに「心が行動している」という教育援助計画を立てて、被災地の300人余りの教師のために災害発生後の心理問題を解決し、メンタルケアのスキルを伝授しました。関連の社会機関と政府部門とともに「北川心理援助連盟」と設けて、現地の庶民に対する長期的なカウンセリングにより支援を提供するようにしました。2010年に、玉樹地震、舟曲土石流が発生した後、仁愛基金会は引き続き仏教徒を組織して、プレハブの校舎を作り、メンタルケアの教材『生命の読本』を編纂し、仁愛コミュニティーと児童活動センターを設けて、教員のための心理補導トレーニングを展開するなど、罹災地の民衆の心の再建のために重要な貢献をしてきました。

数年来の経験を踏まえて、われわれは次の認識に達しました。災害発生後におけるメンタルヒーリングは、宗教信仰の伝統的な優位性を充分に発揮するうえ、現代心理学の豊富な資源とも結びつけるべきです。広範に社会各方面の力を連合し、ダメージを受けやすい弱者層に重点的をおきながら、計画的に、段階に分けて心の救助を行うべきです。心の救助はふつう三段階に分けられます。第一段階:無畏施——精神的な問題を解決し、被災者が災難の影から歩き出し、自信を取り戻し、心理的なあせりをはらすように助けます。第二段階:財施——生活の問題を解決し、被災者の緊急に必要とする物資を提供し、充分な安全保障を提供し、異常心理による障害を緩和します。第三段階:法施——生命の問題を解決し、命に関する教育を施し、人生の方向を導くことに務めます。

三、人類の集団意識

心の傷を癒すと同時に、われわれは自然災害と人類の集団心理の深い関係に目を向けるべきです。人類の集団心理は人類の共通した心理モデルで、共有する心理状態であり、直接に人類がいかに物事を考え、いかなる行動に付するかを決めるものであります。仏教によると、思があるゆえ業があり、業は現実的な結果を生み出す力であります。個人の、単独の思想活動が生み出したのは別業であり、これは個人の苦楽と境遇を決めるだけです。集団の、共通した思想活動が生み出すのは共業で、これは人類全体の前途と運命を決められます。正に分析心理学の創始者ユングが指摘したように、「われわれ個人の心理状態は非常にうすい表層だけでしかない、集団心理という海の一つの波であります。われわれの全部の生活、既知の世界の外見を変え、歴史を構成する強大な要素こそは集団心理であります。」[1]

心理状況が良くない社会は脆弱で短命であるに違いありません。孔子は『論語』の中で「足食、足兵、民信」を社会の三大中心とし、しかも「民信」を最優先にし、「足食」、「足兵」のいずれよりも重要だと見ていたのです [2] 。われわれは「食」を物資の備蓄にたとえ、「兵」を科学技術のレベルに喩え、「信」をメンタルヘルスにたとえると、これら三者は人類が災害に対抗する際の三つの法具でありながら、メンタルヘルスはやはり一番重要であります。一人の人間が重度の心の問題を抱えていると、狂った挙動に走りやすいように、もし人類全体が良くない心理状態に陥ると、さまざまな非理性的な集団行為をするでしょう。はなはだしい場合、自分の生存までも脅かすかもしれません。

人類の集団心理は個人の心理と同じように、やはり意識と無意識(或は潜在意識)という二つのサーフェースに分けられます。集団意識は社会にある各種の学説、思想、信仰として現れ、集団無意識は集団意識のバックグランドにある原動力であり、歴史を通って沈殿してきた精神のコアであります。個体無意識の内容は第八アラヤ識(alaya)の中の種であり、人類の集団無意識の内容はあらゆる個人のアラヤ識の中に普遍性、共通性を持つ種(分析心理学の元型に相当する)で、人類の共業の方向を決定付けるコアなる要素であります。「元型はパワフルで、決定的な力であり、真実の事件が発生するように促すのであり、われわれ個人の理性的あるいは実際の知識ではありません。」[3]

人類の集団意識の史上において、自然災害に対する態度は次の三つの段階を経てきました。

(一)、神話段階。昔の人類の目からみれば、各種の自然現象は意志と生命を備えた人格であり、風、雨、雷、稲妻等の气候変化はすべて神様のしぐさであり、自然災害は神様の威力の現れであります。災害が起きないようにするために、人間は神様を祭らなければなりません。

(二)、宗教段階。人類が枢軸時代に入った後に、有神宗教が相次いで創設されました。西洋の宗教信徒から見れば、自然はキリストによって作られたもので、自然の災害や変異は神様の意思の体現であり、世の中の邪悪対する懲罰である。紀元前2世紀の中国では「天人感応」の思想が生まれ、西洋と同様に、社会の運営を自然の変化に関連付けて、自然災害の発生を主に世の支配者の正義にもとる仕業が天意に背き、天を怒らせたからだと考えました。

(三)、科学段階。近代科学が盛んになり、西洋文明が率先して神学思想の束縛から脱出して、有神論の災害観に対する大胆な質疑を提出した。中でも1755年のリスボン大地震がもたらした悲劇はヴォルテール、ルソー、カントら思想学者の集団的な反省を引き起こしました。人々は自然災害が人類社会とまったく関係のない自然現象だと信じるようになり、科学調查と観測に着手し、災害の解釈と予防に取り組むべきで、勝手な臆度におぼれてはいけないと考えはじめました。

今日に至り、科学技術の速い発展はあきらかに人類の災害に対抗する物質面の能力を高めました。しかし、巨大規模の天災の前ではやはりひとたまりもないし、災害が起きる前に、人間は短い警戒警報の時間内に適切に避難できないのです。そして自然災害に関する予報が不確実性を持っているかもしれないので、人々は短期的な経益を犠牲して、前もって充分な予防措置を取ったり、潜在的な罹災地から引っ越そうともしないのです。だから、科学技術の進歩があっても、自然災害がもたらしかねない手痛い破壊をまぬかれません。

さらにひどいことは、ひたすら科学技術と物の力を強調する思想上の傾向が、人類の目を遮ってしまいました。人類は災害について反省しないばかでなく、かえって自然に対するコンプレックスとコントロールの欲望をいっそう高めました。その具体的な現象は下記のとおりです。ただ単に自然災害が自分の欲望を損ねた面をみて、自分自身の欲望が自然の本性にそむいた面は見えません。ただ自然に求めるのを当たり前だと考え、自然のために貢献する責任があると気づけません。ただ自然が人類の必要に順応すべきだと見て、人類が自然に順応したほうが理の当然だとわかりません。これでは人類は本当に自然を理解し、適応できないようになり、人間と自然の間のへたたりを深めていき、人類の唯我独尊の偏執を重くするばかりです。

人類の自然災害を見る態度は重大な問題であります。これは人類社会を持続的な発展が可能な明るい道へと導くかもしれません。一方人類を永遠に寧日のない死亡循環へと誘いかねないません。もし人類が過ちを認めず、頑固に押し通そうとすれば、自然災害がこうむる長期的な苦しみは避けられないでしょう。

四、人類の集合的無意識

集合的無意識の角度からみれば、人類が自然災害と戦うコンプレックスは科学技術の発展がもたらした直接的な結果ではなく、本当の根源は心の奥深くにある自然に対する恐怖心であります。まさに恐怖心があるから、人類は科学技術をたよりに自分を守り、自然から離れたところに逃げて、鉄筋とセメントの森に隠れて、自然と隔絶した。人類は自分のために高い壁を築き、だんだん自然に対する感受性を失ってきた。自然は一種のはるか遠くて見慣れない存在となり、人々のもてあそぶ盆景にされたりした。

古代において、人類は神話や宗教という方式によって、恐怖心を大自然に対する畏敬に昇華し、心の調和とバランスを手にしました。けれども、現代人は心の矛盾を抑圧し、自我への偏狭な執着を飾り立て、科学技術で自分を武装し、自然を征服する道を選びましだ。科学知識はもちろん一部の虚妄な考えを取り払いましたが、原生の恐怖心を取り外すことができませんでした。自然は相変わらず自然のままで、受け入れられることは可能であるが、手なずけられることはありません。そこで、ある日に、自然が獰猛な顔で人類の見せびらかしを砕いてはじめて、人類はようやく目が覚めるのです。しかし、たびたびのことであるが、人類は自然への畏敬を取り戻すのではなく、かえってさらに強い不平と憤りを引き起こし、さらに対立と排斥を深めてきました。

対立と排斥が存在する限り、不安と恐怖が永遠に伴われるでしょう。自然はまるで人類の父親のようであり、恐れるべきものであり、尊敬にも値するものであります。自然は人類が成長するふるさとであり、文明が萌芽する出発の地でもあります。老子は「人法地、地法天、天法道、道法自然」と述べました。アリストテレスの名言に「技芸は自然の模倣である」。キケロは「私は『自然』という最良の案内人に追随し、彼女を神明のようにあがめ、その命令に従う」と言いました。[4] ダ・ヴィンチは「絵画は自然の孫である」と述べ、[5] コメニウスは「秩序はすべての物事をあらゆる人に教える教授法の主導的な原則です。これはもちろん、しかも自然の働きのみを参考にすべきである。」[6] 大自然はもともと文明が進歩する良き師であり、イノベーションのひらめきのソースでもあります。目下の循環経済、生態文明などフロンティアの概念は自然に習ったからこそ得られた啓発ではないでしょうか。

自然は実際人類の内心の本来の面影の現れであり、人と自然の間に根本的な対立が存在していません。自然に直面するのはすなわち自分の心に直面することです。唯識学によると、八識にすべて見分と相分の二通りの機能を持っており、第八アラーヤ識の相分は内相分と外相分を含み、その中の衆生の五蘊身心はアラーヤ識の内相分、周りの自然環境はアラーヤ識の外相分に属します。前者は即ち正報で、後者は即ち依報であり、全部アラーヤ識に隠された種の変化の現れです。正の中に依があらわれ、依の中に正が現れるので、依正が不二であります。だから、衆生が生存する自然は自分たちの心の染浄の種と密接にかかわっています。自然がどのような面影を示すのかは衆生全体の無意識状態によって決められます。

人道は六道の一つであり、善業のほうが多いので、善道に属しています。地球の自然環境は人類の雑染した善悪共業の所感であり、全体的にいえば善は悪より多いです。だから、大自然自身には善性を備わって、われわれ内心の善性と呼応できます。一乗円教には「無情説法」、「非情成仏」という言い方があります。実際に、われわれが心を静めて体得すれば、内心の仏性は自然の至るところに現れていることが分かります。蘇東坡は「溪声便是広長舌,山色豈非清浄身」(渓の流れの音は長広舌そのもので、山の色は清浄の身ではないか)と嘆き、虚雲大師も悟りを得たすぐ後、「春到花香処処秀,山河大地是如来」(春が来ると花がところどころに香り立ち、山や河、大地は如来そのものである)と説きました。

人と自然との闘争から、人類の無意識の中にある二つのコンプレックスの消長を垣間見られます。一方は煩悩の習性で、もう一方は仏性の光明です。煩悩の根源は自己中心であり、つまり我執——我および我が所有に対する執着であります。仏教は「我」を一種の心理作用の組み合わせであり、実在ではないと見ているので、第七末那識(manas)と名づけました。ユングも「自我は一種のコンプレックスであり、もちろん、私たちが大事にしている最も親しいコンプレックスは私たちの自我である。自我は常にわれわれの注意と欲望の中心にあり、しかも意識の絶対にほうっておけない中心である」と認めています。[7] 無意識の中にある煩悩の習性は意識に気づかれないが、これが心の奥深くに絶えず発酵し、成長しつづければ、仏性の光明は纏わされ、覆い隠されてしまいます。この現象が心の外に投射されると、人類が物の文明という大旗を高くかかげ、自分をはぐくんできた自然を征服するように映します。もしわれわれが心の中にある仏性的光明を起動させれば、煩悩の習性の成長を防ぎ、根本から自我中心主義に基づく人と我の対立、物と我の対立、自分と我の対立を弱め、さらに取り除くことができます。これによって人類を再び自然の懐に帰らせ、換骨奪胎のような新生を得られるでしょう。

未来の世界は必ず心の世界であり、物の世界や我の世界ではないと確信しています。人類はともに手を携えて、衆人の善心、愛心、慈悲心、良心が集まるような斬新な世界を作り上げるべきでしょう。新しい世界の中で、われわれは新しい意識を持ち、新しい文明を始めるでしょう。それは下記のとおりでしょう。

経済の成長、社会の運営は、人間と人間の間にギャップを作るためでなく、人間同士の包容を促進するものです!

科学の発展、技術の進歩は、人類と自然の対立を深めるためでなく、人と自然の調和を促進するものです!

文化の繁栄、芸術の復興や、人と自我の分裂を作るためでなく、人と自我の統一に達成するためです!



参考文献:

[1] [3] ユング『分析心理学的理論与実践』[M].北京:生活·読書·新知三聯書店,1991:177。

[2] 『論語·顔渊』「子貢問政。子曰:足食,足兵,民信之矣。子貢曰:必不得已而去,于斯三者何先?曰:去兵。子貢曰:必不得已而去,于斯二者何先?曰:去食。自古皆有死,民無信不立」。

[4]キケロ『論老年、論友誼、論責任』[M].北京:商務印書館,1998:5。

[5] ダ·ヴィンチ『达·芬奇論絵画』[M].桂林:广西師範大学出版社,2003:5。

[6] コメニウス《大教授学》[M].北京:人民教育出版社,1984:80

[7] 同[1]:7-8。

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