共に歩める道を求めて

日中友好宗教者懇話会理事長
日蓮宗 本山藻原寺住職
持田貫宣(日勇)

二十世紀後半に入って地球・世界は経済の発展とそれに伴う通信と流通手段の進化によってグロ-バル化され、それに影響を受けて、政治の分野では共産主義、資本主義の対立が解消され、一部に残る全体主義もやがては民主主義化の趨勢にあり、アジア、アメリカ、ヨ-ロッパ・ロシアと地域的な連携が進んでいるとはいえ、やがては全世界的な普遍化された一文明圏が出現しようとしております。

しかし人々の生活的な面においては地域的な特徴を持った文化が継承され、それが人々の存在理由となっていくと思われます。

宗教は土着的な一面と普遍的な一面を持ち、世界宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教等においては古くから人種、国家を超越して広まっていきました。

しかし人種や国家の中に広まっていく段階でその受容の在り方によって甚だしい変化を遂げていきました。

インドに起こった仏教が中国、韓国を経て日本に渡来し、日本人の中に定着し、広まっていく中で日本の仏教は世界の仏教の中でも特色のある発展を遂げました。

今、日本人殆どは佛教徒であります。信仰に熱心であるか、それとも不熱心であるかは問わず、先祖からの祭祀を継承するという意味においては佛教徒であります。

今、日本には既成宗教、新興宗教を含め、天台系、真言系、浄土系、禅系、日蓮系の百五十の宗派があり、七万五千の寺院があります。教師数は二十八万人、信徒数は五千六百万人とされています。

日本の人口一億一千万人の半数が佛教徒であるということは、一家に一人信者がいれば、その家の人は同一の宗教に含まれると考えた方がいいので、殆ど日本国民は佛教徒と言っていいと考えられます。

このような現象は仏教がかつて神道と結びつき一部落に一神社、一寺院が造られた徳川幕府の政策である檀家制度によります。

維新によって王政復古を成し遂げた明治政府は明治初年に神仏分離、廃仏毀釈政策を遂行しましたが、明治八年には此の政策を変更せざるを得ませんでした。

しかし、僧侶の肉食、妻帯、蓄髪公許令を明治五年四月二十五日に出し、明治九年二月二日にはこの公許が各宗の宗規に関わらない旨が再達されています。更に明治十一年に三度発せられて国家が僧侶の肉食妻帯蓄髪を奨励しているのであります。

江戸時代、本山を除く各寺院は小規模で、住職が手伝いを一人でも置いて運営しているところが多く、小僧のいないところは手伝いが女性の場合もあり、手伝いが定着して坊守として専従することが起こりました。

日本の宗教は具足戒どころか十戒すら重んじなくなっていましたので、僧侶の肉食、妻帯、蓄髪を許すという国家の指令が出たのでしょう。

今、日本の僧侶は僧服を儀式の時しか着ません。通常は洋服で背広にズボンです。ですから一般の人と外見は変りません。頭を伸ばしていたら全然変りません。頭を短くしている人は幾分か一般の人と違いますが、一般の人も頭を短くしている人が増えてきたので判らなくなっています。

本山を除いて、一般の寺には妻子が居ますし、肉、魚何でも食べますし、酒も飲みます。こうなると五戒の不邪淫戒、不飲酒戒はどうなっているのかと言うことになりますが、そう言う戒の存在を僧侶も信徒も問題にしません。

本来戒律は佛教教団(僧伽)の集団としての規範であり、戒とは集団規則(律)を守ろうとする自律的な決心であり、修行を行なっていく自発的な精神であります。

信者は仏教を修行しようと決心するとき、三宝に帰依し(三帰戒)、五戒を受けます。更に六斎日には五戒に三戒を加えて八斎戒として、八斎戒を守ります。

出家しようとするときは十戒を受けて沙弥となります。十戒は八斎戒に二戒を加えたものであります。

比丘となるときは具足戒を受けます。

このように佛教の修行者は在家も出家もすべて戒に基づいて修行をします。戒定慧の三学といって、戒の実行があってはじめて禅定と悟りの智慧が得られるのです。戒の自発的決心が修行の根本である、とします。

大乗仏教が興ると、大乗の利他の精神に基づいて、大乗戒が説かれ、最初は十善戒が主張されました。

十善戒は身・口・意の三業における戒であり、身の行為では不殺生・不偸盗・不邪淫、口の行為に関しては不妄語・不悪口・不両舌・不綺語、身の行為に関しては不貪欲・不瞋恚・不邪見であります。

その後大乗菩薩戒の特色を表わす概念として三聚浄戒が華厳経に説かれます。止悪・修善・利他を誓う戒であります。七佛通戒偈『諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸佛教』はその具体化であると思えます。

佛教が日本に伝播し、知識としての教えから修行の当体としての道が求められるとき、戒律の理解が必要となってきます。

鑑真和尚が入朝し、東大寺に戒壇院を設けて授戒の根本道場とし、僧綱に任ぜられて僧尼を統括し、戒律の普及と寺院の監督の任に就きますが、四年ほどで僧綱を辞めて東大寺を離れ、唐招提寺を建立して戒律の教導に尽くされますが、戒律は定着しなかったようであります。

伝教大師最澄聖人は鑑真和尚の将来した天台関係の仏典を学び、入唐して天台山で道邃、行満大師から天台の付法を受け、菩薩戒を授けられます。 帰国後、新たに比叡山上に戒壇を設け、大乗戒のみによって授戒し、受戒以後十二年間比叡山に籠もって学問・修行させる制度の樹立をはかりました。没後七日目に許可され、翌年、弘仁十四(八二三)年に新しい制度による授戒の制度が始まりました。 最澄聖人は梵網経による梵網戒のみを大乗仏教の修行規範とすべきことを主張し、実行しました。

梵網戒は十重四十八軽戒といい、十重禁戒は一、不殺生戒、二、不偸盗戒、三、不邪淫戒、四、不妄語戒、五、不こ酒戒(酒を造り売ること)、六、不説四衆過罪戒、七、不自讃毀他戒、八、不慳貪、九、不瞋恚戒十、不謗三宝戒であります。四十八軽戒は省略しますが、利他行を重んじた、小乗具足戒を含まない純大乗の立場を鮮明にしたものであります。 天台宗では梵網戒に三聚浄戒を法華経の精神によって裏付け、円頓戒として用いました。 日本佛教の多くは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて比叡山から派出したものですから、天台本覚思想の影響を受け、日本的な現実肯定の立場を取り、多くの戒律に縛られることを嫌い、佛教の日本的変容を来すに至りました。

日蓮聖人は唱題受持の一戒を強調なさいました。

法華経の見宝塔品の中には『此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸佛亦然 如是之人 諸佛所歎 是則勇猛 是則精進 是名持戒 行頭陀者 』とあり、法華経を受持するのが戒であるとされました。

更に、十法界明因果鈔の中に『それ持戒は父母・師僧・國王・主君・一切衆生・三寶の恩を報ぜんがためなり。』といわれ利他の行こそ仏陀の示す真の戒であるとされました。 また、諸法実相鈔の中に『行学の二道を励み候べし。行学絶えなば仏法はあるべからず。行学は信心より起こるべく候』とおっしゃって信心為本を勧めています。

日本の仏教は鎌倉時代に日本独自の仏教が生まれ、浄土宗、臨済宗、曹洞宗に続き、浄土真宗、日蓮宗と新宗派が出来ますが、特に浄土真宗や日蓮宗の様な中国佛教にあまり影響を受けない宗派が出来、活発な布教活動を展開すると、それ以前の仏教である天台宗、真言宗も影響を受けて変ってきました。

現代の日本に置いて新興宗教が多く顕れ、活発な活動を行なっているのもそのような素地からであります。

日本の仏教の僧侶は信者の先達であります。信者と同一化し、僧俗一如であります。 その中で信解が重んじられ、戒が重んじられなくなっていきました。 

日本の佛教徒にとって糞雑衣を着、肉食妻帯をしない僧侶は別世界の異星人と見えることでしょう。

日本山妙法寺大僧伽の僧侶がそのような形をしていますが日本社会には馴染まないようです。

日本佛教と中国佛教及び東南アジアの佛教が伝承の過程で著しく異なって来た以上、お互いに同化する事を目指すことなく、相違を理解しながら共存をはかり、仏教の伝播を図るべきでありましょう。

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