綺麗な文化勝景―チベット仏教の東向伝来と発展に遡る(一)

中央民族大学蔵学院教授 王堯

諸法師方、諸大徳方の皆様:

本日は、素敵な因縁で学誠法師誘いに応じて皆さんにチベット仏教について報告をさせていただきます。私は今年八十歳あまりですけど、分かっていること、学んでいたこと、やったことは僅かしかないんです。しかし、できるだけ自分の知っていいることを皆さんと分かち合いたいと思います。

仕事の原因で長い間チベットに居られました。二十代頃、もうゴンガ・トゥルクラマに師事して、チベット仏教に触れて、長期的に仏の光に浸っていて、沢山のリンポチェと親しんで勉強してきました。もちろん、チベットの一般民衆にもいろいろ教わって、チベット文化と歴史の知識に富んできました。その後、海外でより幅広くチベット仏教人士と接触できました。その中、一部の友達はもう他界されましたが、多くの友達とは今でも連絡を取っています。今までの人生を振り返って見ると、ずっと中華民族のために、中国仏教のために、自分の力を尽くしてきました。

 いま学誠大法師との話しのように、我々中華民族は今日までやってきたのには、それぞれの使命感を抱いてます。私たちは民族復興のために、できるだけ自分の役目を尽くすものです。私は今の歳で中華民族の将来と希望を感じ、、中華民族はきっと美しい未来があることを信じます。

この使命感はわれわれ宗教団体、仏教団体に神聖的な責任を与えてくれました。われわれは真面目に努力して、最善を尽くさしなければならないのです、民族大復興のため自分のやるべきことを、自分の初志を貫くべきです。今日は皆さんとチベット仏教について話し合いたかったのですが、前に準備した「千江に月が映る」というテーマを「綺麗な文化勝景―チベット仏教の東向伝来と発展に遡る」に変えました。

 仏教は中国に伝来してきたのは、もう二千年あまりでした。仏教は中国で大勢の信者たちに影響を与え、次第に中国文化の一部分になってきました。皆さんご存知のように中華伝統文化は主に儒釈道に指しています。つまり、仏教文化はもう中国思想の重要内容になりました。漢伝仏教はもう二千年以上の歴史があり、仏教伝来二千年記念大会は西安で開催したので、私も参加しました。今はまた十数年も過ぎたのです。漢伝仏教以外には、またチベット仏教と南伝上座部仏教があります。インドの仏教は七世紀の頃、インド教に近づき、密教化になって、我が國のチベットに伝来しました。ヒマラヤの南部あるいは西部を渡って、容易くインドからチベットに来ました。それに、沢山のチベット居民も勉学や、旅行、色々の原因でインドへ行って、仏教、特にその密教に出会いました。

仏教のチベット伝来に特別な貢献をした人--文成公主。彼女は大唐王朝の公主でした。唐朝は我が国の一番繁栄な時代でした、経済や文化など――要するに、国家はとても強くて盛んであった時代です。仏教文化は唐代に、もう輝かしい中華文化の中にかなり重要な部分になっていました。唐王朝は一名の公主を遠い吐藩(当時のチベット地方)へ嫁に行かせました。その時のチベットは多くの部落連盟から奴隷制の軍事連盟に段々転化していました――その連盟は吐蕃といいます。当時の吐藩首領は唐王朝と婚姻を結ぶため、錄東贊という使臣を長安に派遣して、結婚願いを唐王朝に提出しました。その求婚に関する史実は唐朝が記録しました。当時の宮廷画師は求婚の経緯、宮廷の接待、唐太宗と使臣の面談を絵にして、保存してくれました。その絵の名は「歩輦図」で、画師は閻立本です。今日持ってこないんですけど、もし興味があるなら、インターネットでこの絵を探してみてください。「使者」のチベット語の発音は「錄東贊」ととても近いです。チベット語には「錄」とういう字は「大臣」の意味です、発音は漢語での「錄」とは酷似です。錄東贊は吐藩王を代表して唐に求婚をしました。「吐藩王」はチベット語には「贊普」と言います。唐朝の記録によって、「贊普」は「英雄の男」という意味です。「英雄の男」は「贊普」で、つまり吐藩王です。プロポーズを受けた唐太宗は文成公主を嫁に行かせることを決めました。文成公主は唐太宗の娘ではなかったけど、皇室兄弟の子でした。ただ十八歳でした。文成公主はチベットの文明発展、漢族とチベット族の交流、そして中華民族の団結と繁栄にも、巨大な貢献をしました、チベットでの影響は非常に大きかったのです。チベットで二十年間ほど過ごしてきた私は私たちの先輩としてそんな偉大な女性がいたのをしみじみ誇りに感じました。彼女は仏教の慈悲の心を持って、歴史の責任を双肩に担って、山を超え川を渡って王室公主の身分でチベットの嫁になりました。

ソンツェンガンポ――文成公主の夫、文成公主の提案を受け入れ、それに当時の民風にも順応するため、仏教を認めました。それから、チベットで、青海チベット高原で、仏教が広がって行きました。どんな時でも私たちはそんな偉い人物を忘れてはいけないです――文成公主とソンツェンガンポ。チベット王――ソンツェンガンポは西暦650年になくなったのです。彼の生まれた年について今でも幾つかの言い方がありますが、没年は明確の記載があります。それに、唐太宗が世を去った時、彼は使臣を長安に派遣したのです。唐太宗の陵墓に幾つかの辺疆首領の塑像があります、その中にはソンツェンガンポのもあります。文成公主は西暦641年にチベットへ旅に出ました、それは貞観15年のことでした(明確な記載がある)、3年間かかりました。色々な原因でチベットでまた3年間いていました。ソンツェンガンポと結婚してから、西暦650年ソンツェンガンポの辞世までただ3年間一緒に暮らしていました。一人の女性として、文成公主は、チベットで30年間以上、およそ40年間も過ごしました。その史実は新唐書でも旧唐書でも、明確に記載されています。

 文成公主はチベットで沢山の仕事をして大唐文明を広めていました。これは当時の吐藩のような奴隷制部落連盟の政体と社会で非常に難しいことです。様々の仕事に一番重要なのは仏教でした――ソンツェンガンポが文成公主の勧めで仏教を受け入れました。当時のある重要な文献によって、文成公主は釈迦牟尼の12歳時の等身銅製仏像を吐藩の首府、現在のラサに持って行きました。当時の文献にはラサを「邏西」と称しました。「邏西」の漢文意訳は「拉薩(ラサ)」で、「拉薩(ラサ)」という二つの漢字は今のチベット首府の名前となりました。当時王室が住んでいたエリアは現在ラサの中心です。ラサ市と他の町は違っています――最初仏像があってから、町を造り上げたのです。仏像を安置するために「Jokhang」という広壮な建物を建てまして、それは今の大昭寺です。「Jok」は「大昭」に漢訳し、チベット語には「王子」との意味です。釈迦牟尼はカピラ国の王子なので、「Jok」は「釈迦牟尼王子」のことに指します。チベット民衆は釈迦牟尼を「Jok」と呼ぶ習慣がありますので、仏像を安置するところを「Jokhang」と言って、漢訳は「大昭寺」となりました。その後、モンゴルは「易克昭」を造り上げました。モンゴル語に「易克」は「大」との意味で、「昭」は大昭寺の「昭」で、釈迦牟尼仏像を祭るところです。これから仏教はチベット高原でとても良いスタートを切りました。これは文成公主チベットへの移住図です。

 チベット王は仏教を受け入れてから、16名の青年をインドへ仏教勉学と文字創立のため派遣しました(皆さんご存知のように、仏教はインドから伝来したのです)。その時のチベットでは文字がありませんでした。前の宗教も今日仏教のような完璧な体系になっていませんでした。仏教伝来以前チベットにボン教という宗教があって、自然万物を崇拝する土着な宗教で、現在仏教のように高度発展していなかったのです。チベット王に命じられ、インドへ派遣された16人は熱帯気候に慣れないゆえ、一人しか生きて帰りませんでした。帰ってきたこのチベット聖人――トンミサンボータ、チベット文字を発明しました。彼はインドの梵語体系によって、梵語の表音文字を参考して新たな表音文字を作り出しまして、それは今使われているチベット語です。

 トンミサンボータは7世紀半ば頃、チベット語の創作が完遂しました。そしてもう一つの仕事は仏教経典の翻訳でした。仏教は高度な思想内容のある宗教で、世にあまねく伝わる経典でもあるので、翻訳する必要があります。私たち漢族は漢文で翻訳しているのですが、チベット族が違う言語――チベット語を使っているのですが、文字がありませんでした。インドでどうやってブッダ思想を記録されているのかを勉強するため、チベット王によって派遣させられました。彼が作り出したチベット語は、今でもチベット族に使われています。人民幣を見てください、人民幣の上幾つかの少数民族文字を印刷されています、そのうちチベット語があります。言い換えれば、仏教があってからこそ、チベット族はもっと文明的な時代に邁進しました。彼たちは文字があって仏教経典の翻訳が始まってからこそ、奴隷制部落連盟政体の下の民族からもっと文明的な段階に入って、自分の文化と哲学思想のある民族になれました。仏教がチベット族の歴史を輝かしくしたとも言えます。唐王朝の辺疆に派遣された文成公主は、自分の偉大的な使命をやり遂げました。

 彼女は西暦7世紀中葉、具体的に言うと、西暦641年に、チベットの嫁に行ったのです。チベットで40年間暮らし、世を去りました。逝去の知らせが朝廷に届いた時、当時の皇帝はこの偉大な女性を哀悼するため、三日間も朝廷の公務を罷業しました。

 この後、西暦709年に唐朝はもう一人の公主を吐藩へ嫁に行かせました、今回の吐藩王はティソン・デツェンでした。ティソン・デツェンはソンツェンガンポ五代目かしらで、もう一度唐朝と和親を通じて、両方の関係を強化しました。唐中宗の時、西暦709年に金城公主を吐藩へ嫁に行かせました。彼女は唐朝の吐藩へ嫁に行かせた二人目の公主でした。この公主はチベットで何の貢献をしたかというと、彼女は一人の男の子を生みました。文成公主は子供がいないのに対して、この金城公主は一人の息子がいます。彼の名前はティソン・デツェンでした。この人を覚えてください!彼はソンツェンガンポを継いで、第六代目の贊普でした。ティソン・デツェンはチベットの仏教事業の発展を全力で支持して、非常に重要的な貢献をした人物です。

 金城公主は武則天のひまごで、とても高貴な家柄の出身で、本当の皇族生まれです。この公主に関して、たくさんの物語があります、今後時間があれば、また皆さんに報告をさせて頂きます。皆さんもしチベットのラサへ旅行や参拝に行くのなら、「ノルブリンカ(Nor-bu gling-ka)」と言うところへ見に行けばいいと思います。ノルブリンカはラサ市の西郊にあって、私たちの頤和園みたいな公園です。中にはダライラマが住んでいた宮殿です、そのうち「永安殿」という宮殿があります。永安殿の二階に上って行くと、真正面に「宴会で舅を認め」との壁画があります。この壁画は王子が宴会で自分の舅を認める物語を描きました。チベットで、舅は自分のお母さんの実家と関係のある親戚のこと指します。金城公主は吐藩に行ってから、沢山の困難に遭ってしまいました。特に、息子を生んでから、長い間お互い離れて、それにもう一人の妃に奪われてしまったということで、大変な目に遭いました。これは長い物語です。

金城公主は長期の苦痛に耐えていました。息子が7歳になった時、唐朝は使者を派遣して金城公主を見舞いにきていました。この使節団の来訪をいい機会と思うチベット王は、大勢の役人と庶民は一緒に参加した盛大の歓迎会で、ティソン・デツェンにこう言いました――「おいで、わしの子よ、お前は今年もう7歳になった、わしはお前に一杯のお酒をやる。この酒杯をもってお前の舅にささげなさい!」と。ティソン・デツェンは唐朝からの使節団団長の李氏へ行って、「ナメン(王子を奪ったその妃)は私とはなんの関係もないでしょう!」と言いました。その時、チベット王はとても嬉しくなりまして、他の人も拍手をしました――ティソン・デツェンはやっと自分の舅を認めました。その時、彼のお母さん――金城公主は屏風の後ろから、髪の毛を振り乱したまま(子供を失ったゆえ、彼女はもう精神に异常がありました)走り出して、自分の息子を抱いて、お互いに認めました。舅を認めたからにはお母さんも認めたのです。宴会での人もみんな喜びの声をあげました。これからティソン・デツェンは大衆の支持と尊敬を得て、数年後、吐藩王になりました。

 彼は三つの仕事をして、大いに仏教を普及して発揚しました。

 第一に、チベット仏教を代表する初のお寺を建てました。さっきの「大昭寺」はただ仏像を供えるホールでした。仏・法・僧三宝は全部揃わないと、寺院とは言えないです。ティソン・デツェンは最初の寺院――サムイェー寺を建てました。このお寺はラサの東南方向にあたって、ヤルンツァンポ川の北岸にあります。皆さんもし飛行機でラサへ行くのなら、空港から直接にラサ市に行かないようにおすすめします。空港に着いたら、車に乗って東へ1時間くらい行って、川を渡ってダナン県に行ってください。サムイェー寺は川の北岸にあります。この寺院は西暦779年(確実な日付)に建てられ、本当の意味での仏・法・僧の三宝揃った最初の寺院です。サムイェー寺を建てた後、7名チベット人が出家してチベット族の最初の僧団を組生しました。チベットの最初の僧伽組織制度がここから始まりました。最初に出家したこの7人は「7覚士」とチベット居民に呼ばれていました――「覚醒」の「覚」で、迷いから覚醒して出家して受戒するという意味を表します。当時、チベット王は受戒法事を司会するため2名の高僧をチベットに招請しました。一人はインドからの「金明大師」で、もう一人はアフガニスタンからのパドマサンバヴァ(蓮華生大師)でした。この7名の仏僧を始めとして、チベット人は次から次へと出家して段々に一つ一つの僧伽集団になりました。最も多い時期には、5000人同時に出家したこともあります。

寺院には出家した仏僧がいて、供えた仏像もあって、これから仏教経典の翻訳と編集をするだけでした。さっき話したように、文成公主の時代にチベット文字はもう創立したのです。チベット文字を創立する目的は何なのかというと――仏教経典の翻訳です。仏教経典を翻訳したら、経典の供養の始まりとなっています。これからまた大量の寺院を建てました。このサムイェー寺は今でもヤルンツァンポ川の北岸に立っています、皆さんは見に行ったほうがいいと思います。この発展のコースは文成公主と金城公主、二つの時代を経まして、ソンツェンガンポからティソン・デツェンまで長い年月が経った過程でした。ティソン・デツェンの成し遂げた一番目の大仕事――お寺の作り;第二番目はチベット人の出家を勧め、済度すること;第三目は仏教経典の翻訳。

 その時チベットでは大量の仏教経典を翻訳始めました。3か所の翻訳センターも設立しました――三人のチベット語専門家が主催した翻訳センターでした。この3か所の翻訳センターはそれぞれの仕事に没頭して、重複を避けるため、翻訳した経典は目次を作って時々討議もしました。ですから、仏教経典の翻訳事業は唐代からティソン・デツェンの時代まで目覚しい発展を遂げて、三つの目次が残り伝わりました。今のチベット語経典の一部はこの目次を基づいて発展してきたのです。この作業「古訳」と言います。西暦7世紀から8世紀までの仏教政策でチベット民族の文化が飛躍的に進歩し、発展しました。これは根本的な事実です。

これは文成公主が文化を普及するためにチベットへ持って行った楽器です。これは釈迦牟尼の仏像です。(教授は皆さんにPPTを見せる。)今のはポタラ宮です。今日の規模は西暦17世紀中葉から建造したのです、その前にはそんな大きくなかったのです、それはずっと後の話でした。その中にまた有名な話があります。

今までは、全世界で仏教を勉学して、信仰する人がとても多いです。インド社会の特別な原因で、仏教はインドで消滅されてしまいました。仏教は中国に伝来してから、ずっと東へ行って、韓国と日本へも伝わって行きました;チベット仏教もチベットからモンゴルまで広まりました。中国で南伝仏教もあります。それはスリランカとタイへ流伝した仏教です。その一部は私たちの雲南省にも伝わってきて、上座部仏教と名付けられて雲南で根付いてきました。

歴代のチベット翻訳大師の努力で、今日のチベット語の大蔵経の出現となりました。チベット族は大蔵経を「Bstan-h!gyur」と「Ka^h-gyur」を言います、この二つを合わせると、私たち漢族地方の大蔵経になります。チベット語と漢文の仏教経典は全世界の仏教修学者にとって一番いい根本的な文献です。梵文経典は時代の流れに大分紛失してしまいました。ですから、頼れるのは漢文とチベット語の経典だけです、この二つは必須の言語です。

講演の前、王尭先生と学誠法師との懇談 中央民族大学蔵学院教授、蔵学家、民族史学家の王尭氏

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