人類世界の平和を祈る

中国仏教協会常務理事、
黒龍江省仏教協会会長
静波

私が中国東北地方のハルビンから来たものである。ハルビンとは暖かい都市で、冬には非常に寒くて、第二次世界大戦を経験した思いづらい痕跡がまだ残っているにもかかわらずに、道里区通江街にかつて泊まっていた2万超のユダヤ人は、戦争中被害を受けられたことがないし、その当時よく通っていた教会及びお墓さえも今日までにきちんと保護されている。またハルビン近くにある方正県辺りの庶民らが1万人以上の日本人残留孤児を収容し、人々を感動させる物語は今になっても伝えられている。

しかしながら、わたしは幼い頃から中国東北地方が占領された事情を絶えず耳にした。私の祖父、祖母ら多数の先輩たちから常に心の中に刻んでいた苦痛したことを述べられていた……

人類の歴史を顧みていれば、貪欲、隔たり、衝突、戦争とかかわることを免れかねて、偉大な仏陀時代の釈迦族さえも当時の毘瑠璃王に滅ぼされたが、仏陀がかえって完全にそれを止められなかったのは、因縁によっての恨みが綿綿として引き続かれていたからである。周知のように、イスラエル人とパレスチナ人の敵視の歴史が長いものである。しかし、2回にわたる世界大戦で数千万人にのぼった命を奪われたことを私たち人類全体としては反省しなければならない。それは、生命の尊厳がどこにあるのかにある。仏教としては平和を主宰することができないが、平和を提唱し、アピールして、ないし平和のために自らのたゆまない努力を払うことができる。現実に直面して、いかなる良知がある人にせよ、いかなる信仰がある人にせよ、誰でも努力していけば、その結果が必ず違うことになる。一方、仏教の思想は、一切の人に楽しみを与え、あらゆる人に苦しみを抜き取るとおり、慈悲的である。

1、人類共通の生存した郷里のために

地球が一つしかなく、人類の戦争は必ずその環境を破壊し、特に各種の高性能の武器により、地球への恐ろしいほどの被害をもたらされるわけである。テレビ画面に映された戦争と衝突の場面は、私たちの心を痛ましめるものになる。それがなぜかと問う必要はない。原子爆弾の威力と核による汚染が地球への破壊ないし人類への被害は、明らかである。たとえ人間が利己的であっても、地球を保護し、平和を唱え、戦争を避けなければならない。それは地球があくまで人々の共存している郷里であるから。私たちは無我と慈悲、般若と空性、堅持と忍耐の提唱を通じ、きっと戦争の人類への脅威を影響・改善することができると言えよう。

2、生命の尊厳のために

仏教の基本的な戒律の一つは、如何なる生命を殺害できなく、特に人を殺してはいけないことである。それは生命に対する畏敬の意と尊重の念を示し、自らの内心世界を調和的で清浄に荘厳することにある。即ちその他の生命への尊重は、自ら生命への尊重でもある。《楞厳経》の中には、「殺心を除かなければ、埃から出るべからず」と書いてある。《華厳経》にも「衆生が至愛する者は身命であり、諸仏が至愛する者は衆生である。衆生の身命を能く救えるは、則ち諸仏の心願を能く成就せしめる」ように教えている。同体のように大悲を、無縁な者に大慈を与えると言う仏教の精神は、知恵を以って極めて限られている利己的かつ独りよがりを打ち破ることにある。このようにしていけば、仏教は世界平和に少しでも寄与できる。一方、役割を果たさなければ、いかにして自らの信仰を証明するのか。それは必ず自分の命の無駄遣いにつながるはずである。逆にその使命を本当に担おうとすれば、功徳無量となる。すべきでないことをしても、恥じなく依然として内心が落ち着いたのは、私たちの信仰を検証する必要があるからである。

3、意思疎通と対話

世界上の衝突や矛盾及び戦争は、一般的に誤解によった結果でありながら、もちろん貪欲・瞋恚・無痴・我慢・疑いと緊密にかかわっているわけである。したがって適切な交流や言語的意思疎通のほうがとりわけ必要となる。数多くのことについて、当事者が夢中になっている代わりに、傍観者のほうがかえって岡目八目のようにはっきりしているから、そのとらわれている焦りや思い込みから飛び出すことができる。最初の折、理不尽なことをいうか、或いは非常に怒っているかもしれないが、言い出したことにより、その人が何かを考えて、これから何をしていくかを人々に読めさせる。表面に表されてきた人と出来事は、最終的に歴史・規則・道徳・人性というような天秤の中にかけることになる。たとい頑固しても、或いはこじつけを言ったり世論の高地に立ったりいろいろと工夫したりすることを免れかねても、時間と公理・歴史と現実などをどうしても回避できないもと、時間とはあらゆるものを変えられるわけである。盲目の人が象に触るようにその結果を図らずに一箇所のみに攻めれば、消化不良にさせたり、得ることより失うことが多いような結果になったりするかもしれない。人々は、生存的危機に直面した折、戦争により相互の傷害や共通の壊滅をもたらされたことがついに分かろう。特に武器の技術や威力の不断なるアップの今日において、ましである。

当時のドイツ首相であったブラントが、かつてポーランド国民の前にワルシャワでの跪きは世界を驚かせた同時に、世の人々から幅広い理解や諒解及び尊敬を買わした。全くいわゆる「恥を知らば勇ましきに近」いのであろう。これこそが真の懺悔であったから、その真心を受け取らない人はない。

四、悪循環の回避のために

仇を討ちあいつつあることは何時ごろ収束を迎えられるのか。世界におけるあらゆる衝突や勝敗を問われる戦争の背後に、怨恨及びトラブルないし持久的敵視行為を醸されるため、その愛と恨みは無縁なままでできたものでない。それは「此れが生まれるが故に彼が生まれ、此れが滅したが故に彼が滅す。此れがあるが故に彼が有り、此れがないが故に彼が無」いからである。ハマビシが生き残りやすいが、芳しい花を具える苗木は植えがたいものである。人々は人生における欠陥や苦難が連綿と途絶えたことのないうちに、自らの責任とパワーを知らず知らずに見落としてしまうようになる。とりわけ仏教徒としての行いが世間の人々に注目されやすいから、善事をすれば当たり前であるが、悪事をしたら慙愧の念を引き起こされる。良し悪しについて、仏教から見れば、その縁起は性空にあるが、その性空は縁起にあるでもないのであろうか。したがって真諦たる仏法は世俗の法律や道徳及び信仰と切り離すことができない。ひたすら世間的規則などを抹殺しようとすれば、世界の平和がとうてい実現きないのみならず、仏教徒とした信仰さえもなかなか示すことはできない。

人柄のいい人がよく報いられることから、要職についた人、特に仏教信仰のある人としては責任を担うべきである。それはたった一言で国を繁栄にさせれば、その国を滅ぼさせることもできるからである。戦争の発生はしばしば偶然的であるが、ある程度の法則を伺える。例えば、国家権益・政治制度・信仰の差異・民族の尊厳などに注目しなければならない。「多く留す余地を名月に敷き、高壁を築き遠山を碍すこと莫れ」にしても、或いは因果応報の循環が已まないことにしても、釈迦族の傲慢によりもたらされた壊滅のようなことなどは、警戒に値すべきである。

五、人心を変えよ

『華厳経』のなかに「心が工画師の如き、能く諸々の世間を画く。五蘊は悉くそこより生じ、法が無ければ而して造らない」と書いてあるように、心とは仏にしてもいいが、魔となすこともありうる。即ち天国と地獄は一念の差だけでありながら、その果報が異なることである。

仏教徒としては、そのわけを知っておくだけでなく、人々に自分から実行していくのをアピールし、仏教徒の行動を感じ取らせる必要がある。「将に此の身心を塵刹に奉らば、これ則ち仏恩に報いると名づく為」るように、ほかの人に助けることは正に自らへの助けにもなるはずである。故に毎朝の鐘撞き後の朝課において、「国界が安寧にして兵革をなくし、風が調い雨が順じ民が安楽たる」ことを仏様の前に祈願するのを通じ、利他行の中に自利を成就させる。

私たち中国仏教徒がかつて戦争の被害に遭われたことはありますが、私本人の住職しているお寺も戦争によっての影響を及ぼしたことはありました。

今昔を思い比べ、容易くなく迎えられてきたアジア平和に対し、それを倍以上に大切にする同時に、反省したうえ共に努力して生きたい。即ち少しずつ実践しながら、縁を大事に縁に従い、縁を結び縁を全うする。人類の平和や我らの信仰のため、事毎に心を磨くため、やましいところを無くすため、ともに積極的に勇猛精進していこう。

私たちは人類や世界の平和・干戈の永遠なる終息を祈願する。

2014年7月14日

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