臨済宗使節団が戦後初めて臨済祖塔に参拝

臨済宗の宗祖·臨済禅師の示寂は、唐の咸通七年(八六六)四月十日説と威通八年(八六七)一月十日説の両説が伝えられている。そこで、禅文化研究所(山田無文所長)では、宗祖一千百年遠忌事業を、一九六五年と一九六六年の両年にわたって行うことになった。その記念事業の一つは、臨済禅師が開いた臨済院跡(中国河北省正定県)に残る臨済祖塔に参拝することであった。

九十六歳の古川老師を名誉団長に

日中仏教交流懇談会(中濃教篤事務局長)、日中文化交流協会(白土吾夫事務局長)を通してこの旨を中国側に打診していたところ、一九六六年五月下旬、中国仏教協会、中国対外文化交流協会の連名で招待状が届いた。これによって臨済宗は、戦後初めて待望の祖塔参拝を実現する運びになった。

当時九十六歳になる古川大航老師を名誉団長とする使節団の使命は、多年の宿願であった臨済塔に参拝し、報恩の香を捧げるとともに遺跡の保存復興を中国側に要請することであった。

一行は六月十日、羽田空港を出発、香港、広州を経て六月十二日夕刻、北京空港に到着した。空港には、阿旺嘉措中国仏教協会副会長ら関係者多数が出迎え、団員一人ひとりに花束が贈られ、盛大な歓迎を受けた。

翌十三日中国仏教協会、広済寺を訪問、阿旺嘉措副会長、巨賛法師らと懇談する。席上、山田団長から、新註「臨済録」や西陣金襴打敷などの記念品を贈呈した。

そのあと日中両国の僧侶、関係者は精進料理の円卓を囲み、和やかな懇談のひとときを過ごした。

日中合同で「臨済禅師遠忌大法会」

翌十六日、中国仏教協会の配慮により、広済寺で「臨済禅師千百年遠忌大法会」が盛大に営まれた。大雄宝殿の堂内正面に日本から持参した「春叢禅師筆·臨済像」が掛けられ、その前に数々の供物がそなえられな。

法会は中国僧、ラマ僧の読経に続いて、古川名誉団長が香語を唱え、大悲呪を読誦、回向し、宗祖の遺徳を偲んだ。

法会のあと、巨賛法師は「このたび、臨済禅師千百年遠忌に当たり、日本の皆さまを迎え、中日合同の法会を営むことができましたことは、両国仏教徒にとって、まことに意義の深いことであります」とあいさつした。

これに対し、山田団長は「私どもの今回の中国訪問の趣旨を、中国仏教協会がご理解くださり、このような盛大な法会を営むことができましたことに、心から感謝申し上げます」と謝意を表明した。

祖塔を仰いで感慨無量

翌十九日午前八時、一行は、河北省対外文化交流協会幹部の案内により、車で正定県に向かった。正定県は、昔の崩れかかったままの城壁に囲まれた古い町である。四十分ほど車を走らせると、畑の中に、高い大塔の姿が見えてきた。団員の顔が喜びと感動の色に変わり、ざわめきが起こる。車が祖塔の前に止まった。地上百尺、八角九層の大塔である。

「ようやく、祖塔の前に、たどり着くことができた」。一同は、祖塔を仰ぎ見ながら、感慨な無量である。

この塔の裏手には、一九三八年(昭和十三年)頃までは、小院があったことが、記録に残っているが、現在はあとかたもない。塔の周囲は見渡す限りの畑、緑野である。

「日本の皆さんが、お見えになるというので、畑の中を通って、塔の前まで、急いで、道をつくりました」

地元の対外文化交流協会の韓部が説明する。また、塔の九層の一部が、崩れ落ちているのは、その年の春、河北省地城襲った大地震のためであるという。

宗祖を偲ぶ読経の声、緑野に流れる

塔の前に、早速、小さな仮の式壇が設けられた。日本から持参した仏具、香炉、灯明のほか北京で求めてきた生花も供えられた。

いよいよ、山田団長を導師に、宗祖を偲ぶ法要が始まる。まず、山田団長が、大喝一声、香語を捧げる。何一つさえぎるもののない、大空の中に、老師の声がひびきわたった。続いて、一同、やや緊張の面持ちで、大悲呪を唱和する。長年、待ちこがれていた祖塔の前で、祖師への熱いおもいをこめた読経の声は六月の蕉風に乗って、広々とした緑野の中に流れていった。

『日中仏教交流 戦後五十年史』より

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