中日仏教交流の架け橋-空海和尚

青年時代

西暦774年6月15日に、日本は四国の讃岐国で、ある男の子が生まれた.後の空海和尚です.大きい声を出していて、可愛い顔をしている息子を見て、空海の父親は、「良い子だ.我々佐伯家の希望だ.」と喜んでいました.

空海は、小さいころから謙遜で、礼儀正しい子なので、両親を失望させなかったです.

空海は、ある夢をよく見ていました.夢の中では、諸仏、菩薩が、八枚の花びらのある蓮華に座って、眩しく輝いて、とても荘厳です.空海は、夢の真の意味を理解できなかったが、その素晴らしさに憧れました.幼い空海は、宇宙や人生に対して、強い好奇心を持ち、様々な疑問を抱いています.人生の目的は何か.人間は、既有の空間を超越して、自ら有する能力を超えることが可能なのか.人間は、修業して仏になれるのか.空海は、断崖に登って、宇宙に宣言しました.「今、この断崖から飛び降りよう.そのまま死ぬなら、僕は普通の人間にすぎない.世の中にも、仏は存在しない.死なないとしたら、本当に仏法があると信じ、仏教を発展させることを一生の使命としよう」.歴史の記録によれば、空海は、本当に断崖から飛び降りました.そして、死ぬことなく奇跡的に悟りを開いたのです.

空海は、大衆のために求法の大願を立て、出家を決めました.「一つの鉢で千家の御飯を食い、この身で万里を出る」.空海は、二十歳にして石渊贈僧正(即ち、勤操法師)を師とし和泉国(今の大阪辺り)槇尾山寺で出家しました.無空や教海と名乗った時期もあります.

二十三歳の時、奈良の東大寺で「具足戒」を受け、正式的に僧人となりました.

空海は、勤操法師の下で「虚空蔵求聞法」を学びながら、漢文で『三教指帰』という書物を著しました.「三教」は、仏教・儒教・道教の三教を指している.当時の中国の有名な学者でも、三教に精通するのは難しかったが、日本人の空海はそれを把握し、「三教」について透徹した分析を行いました.儒教については日本でも早くから研究されてきましたが、記録によると、道教は、まだ当時の日本には入っていなかったです.空海がどのようにしてそれを把握できたのか、本当に想像しにくいことです.このことから、空海の潛在的能力が非常に大きかったことがわかります.彼は、修行と大知恵法源とを結びつけることにより、教育にも大きく貢献しました.

求法の道

空海は、修行しながら、経典・法具の不足、仏法教育の欠乏、『大毘廬遮那(びるしゃな)経』が理解できないなどの困難も感じていました.そして、空海は、中国やインドに行けば最高の仏教を学べると考え、「大唐に行く」と決断しました.

西暦804年6月、空海和尚は、日本の遣唐使の船に乗って中国に向かって出発しました.当時、船で旅することはとても危険であり、暴風雨に遭遇すれば船はよく沈没しました.空海が乗った船も暴風雨に遭遇しましたが、幸いに、その年の8月に福州に到達しました.それから半年がたち、西暦804年12月に、中国の長安にはいりました.その時の中国は世界で一番繁栄していた国であり、首都長安は中国一番繁栄している都市でした.一緒に来た人がみな長安を去って行った後も、空海は、長安の西明寺に入り滞在しました.

空海が長安で過ごして数ヶ月となったとき、「水が来れば溝はできる(時機が熟すれば事は自然に成就する)」のように、大きな因縁がやってきました.

ある日、空海は、西明寺の志明法師、談勝法師と会談し、「法師は長安に来て多くの高僧と出会ったが、この人と会えないと非常に惜しいです」と言われました.「この人」は、青龍寺の恵果和尚でした.「恵果和尚は、青龍寺の遮那灌頂阿闍梨だけではなく、大興善寺不空三蔵の弟子でもありました.この密教伝授の物語は、......」、このように、志明法師、談勝法師は、密教の縁起を語りました.

「恵果和尚は、今、青龍寺にいます.せっかく中国に来たのに、この密教の最高指導者に会えなかったら、必ず後悔します」という話を聞いた空海は、足もとに火がついたように、恵果和尚に会いたいと思いました.当時、密教の主流は中国にあり、長安にいるその最高指導者である恵果和尚も、誰かを待っていたようです.ある日、青龍寺内で食事を招待して大勢の人々が集まってきており、とてもにぎやかでした.恵果和尚が室内に座禅している間に、ある小和尚が空海を連れてきました.恵果和尚は、空海を見た途端、「ずっと待っていた.やっと会えて、よかった.よかった.」と言っていました.空海は、「正師だ」と思ったが、その感動を表わすことはありませんでした.今まで探していたのは、このような目つき、このような簡単な言葉だと悟り、恵果和尚とは、言葉がなくても心が通じ合いました.そして、空海は、恵果和尚に師事することになりました.恵果和尚は、空海の実際のレベルを知っているものの、最初の開示を教えました.「只証不説(説かず、ただ示す)」でよいので、言葉などいりませんでした.


恵果和尚は、空海を一番大事な弟子として育成しました.他の弟子に、「空海は、もともと三地の菩薩だ」と言ったことがあります.この話によると、空海が普門大機であることがとっくにしています.

空海は、青龍寺に入ってから、一ヶ月で大悲胎蔵の学法の灌頂、二ヶ月で金剛界の灌頂、三ヶ月で伝法阿闍梨位の灌頂を受けました.空海は、三ヶ月の間に、他人が一生をかけて勉強し切れない智慧を把握しました.

他の弟子だけではなく、師匠の恵果和尚も「不思議だ.不思議だ.」と、称贊しました.

恵果和尚は、空海だけに、「私の弟子は、出家する者も在家の者もとても多いのであるが、みな一部の大法しか学ぶことができない.或は、一尊一契を得られようが,兼学して精通できるものは、一人もいない.だが、君は、数ヶ月で、两部秘奥壇儀も印契してしまった、本当に今までなかったことだ」.どうしてそのように育てたかといえば、まず、空海がとても賢かったからです.そして、恵果和尚がこの世に居る時間が、もう長くなかったからです.

恵果和尚は、「私は、もう年だ.この世を去っていく日が近づいてきました.君は、この因縁をよく把握して、密教を発展させよ」と命じました.恵果和尚は、空海が布教するだけでなく、仏教の経典、法具などを海外へ持ち出すことを希望しました.自分の弟子の中で、空海だけが密教を哲学化、教理化して、受け継ぐことができると分かっていたからです.密教は、最初インドで盛んになったが、やがて衰えてしまいました.今、中国に伝わってきて、さらに盛んになっていますが、必ず落日が来ます.しかし、密教を外国人に教えれば、また、他の国で発展する可能性があります.実際には、空海と出会う前に、恵果和尚の下で修行した外国からの弟子もおり、恵果和尚も韓国、日本、東南アジアに密教を発展させたいと思いましたが、それらの外国弟子の中で空海のように密教を理解できた者はおらず、その希望を実現できませんでした.恵果和尚は、密教がインドから中国に伝わり、さらに、東の日本へ広まっていくことを予見しました.

ある日、恵果和尚は、何か重要なことを知らせるために、空海をそばに呼びました.

「空海、お前はすでに大法を把握して、経典書写の作業も完成した.早く故郷へ帰って、布教するべきだ.それこそ、万民の福、天下の幸いである.」

恵果和尚は、息弱く語り、余命いくばくもないようでした.

「師よ、私は帰りたくない」

不吉な予感を覚えた空海は、思わず涙を流していました.

「かたくなになるでない.もう縁は終わろうとしている.ここにいても、意味がない.二部の曼荼羅、百部あまりの金剛智、三藏転付の物,及び供养法具を全部あなたの国に持っていくがいい.これで、大唐以外の人でも、親しむことできる」.「私は、もう年だ、残る日が少ない.悲しむな.生死は、とても正常なことだ.私たちの間には深い因縁があるのだ.何回も約して、師匠と弟子としてこの世に来て、密教を布教する.今回はお前が弟子、私が師匠であったが、来世は私が君の弟子になるかもしれない.詳しい因縁は、言ってはいけない」.言ってはいけないが、空海は、もう大体わかりました.ただ、師匠に対する感情が深いので、この話を聞いて、とても悲しかったのです.

「時々刻々世界大衆の福祉を考えて、大衆のために一生を貢献することこそ、師匠に対する恩返し、国への忠誠、親への孝心だ.帰国して密教の最高の学問を布教できるとしたら、他に望むことはない.早く帰れ」.

中国の歴史を振りかえってみると、恵果和尚が心配していたのは、「会昌法難」でした.

恵果和尚は、唐順宗永貞元年(西暦805年)十二月十五日に入寂.空海が恵果の下で行った修行は半年で終了し、わずかな期間だったが、国境を超えた、密教継承史における成果は大きなものでした.

空海は全弟子を代表して、和尚を顕彰する碑文を起草しました.有名な<大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚の碑>が誕生しました.この日本人により著された碑文は、中国では散失したが、空海が日本に持ち帰り、『性霊集』に収められました.

空海が長安に居た時間は長くなかったが、多芸多才で、様々な方面で業績をあげました.能書家として知られ、篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての書体をよくしました.「五筆和尚」と言われました.


帰国布教

恵果和尚が入寂した後、空海は、毎日師匠に会いたくて仕方がありません.ある日、空海が一人で打坐していると、恵果和尚が雲に乗ってやってきました.

「師匠」.

空海は、大きい声で叫びました.恵果和尚が、何も言わずに空海を見て、去っていきました.その瞬間、空海は悟りを開き、かたくなる心を捨てました.

そして、空海は、すべての縁を捨て、未来へ向かって歩き出しました.

空海が日本にもって帰ったのは、密教経典216部、計461巻、曼荼羅法具及び密教列代師祖から授けられたものでした.日本にはまだ密教の経典が入っていなかった時代、これらの経典、法具はいかにも貴重なものでした.

空海は、20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したため、当時のきまりではそれは闕期の罪にあたるとされました.

帰国した空海は、入京の許しを得るまで、二年間大宰府に滞在することを余儀なくされました.

西暦809年、嵯峨天皇が即位した時、空海が入京しました.それをきっかけとして、布教は新たな段階にはいりました.嵯峨天皇との関係も親しくなり、その名声は大きく高まりました.

西暦809年11月、空海は国家を鎮護するために密教の大法要を行わいました.その場で空海は手に印を結び、口に真言を唱え、心を集中して仏さまの境地に入ると、身はたちまちにして金色の光明を放つ毘廬遮那如来のお姿となられ「即身成仏」をただちにお示しになったのです.その場にいらっしゃた天皇と官僚たちが感動されて涙までも含んでいました.それで、仏法の広大無辺のことを固く信じるようになりました.

空海が帰国した後、天皇に重用されたことは、一生の大きな転換でした.しかし彼は、密教は帝王だけのものではないと考え、高野山を建立しようとしました.高野山は、平民の寺であり、大師弟子の寺でした.日本で密教を発展させる方法は、一つしかありません.それは帝王だけでなく、すべての平民にも密教を学ぶ権利を持たせることです.

以上、「唐密」がどのように日本に伝わったことを紹介しました.日中友好には、仏法的な縁もあるというほかありません.

 

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