初の日中合同法要

1957年9月16日午前十一時半から、北京飯店で中国仏教協会主催の歓迎昼食会が開かれ、日中双方の仏教徒がはじめて一堂に会し、親しく懇談する機会がもたれた。

続いて午後二時半から広済寺で仏誕二千五百年記念、中日友好世界和平祈願の合同法要が、日中の参加者百人により営まれた。中国側の導師は、広済寺住職・大悲法師、日本側導師は高階団長がつとめた。このあと別室で、日朝両国の祖師に対する報恩法要も執り行われた。

またこのとき、全仏から中国仏教協会と毛沢東中国政府主席へ、それぞれ観音像、周恩来首相、李徳全中国紅十字会長へ記念品を贈る贈呈式と、戦時中、青島の白雲寺から日本に持ち返った釈迦牟尼仏像一体の返還式も併せて行われた。

このように戦後、永らく閉ざされていた両国仏教徒の交流は、合同法要などを通してようやく扉が開かれたのである。

待望の玄中寺参拝へ

今回の中国訪問の行程の中で、団員の多くが、最も関心を寄せていたのは、玄中寺への参拝であった。

玄中寺は中国山西省交城県の石壁山にあり、北魏の承明元年(四七六)、曇鸞大師によって創建された古刹である。曇鸞、道綽、善導の三大師よって宣揚された浄土教は広く民衆の間に迎えられ、中国仏教界に大きな影響をもたらした。玄中寺は中国浄土教発祥の地であるが、日本浄土教にとっても、いわゆる念仏宗の総本山であり、忘れられない聖地である。

戦争によって破壊されたこの名刹は、戦後、新中国政府によって修復が行われているという消息が日本仏教界に伝えられていた。その玄中寺への参拝が、戦後初めて実現することになったわけである。

九月十八日早朝、空路北京を発った一行は、午前九時半、太原に到着した。市内の迎沢賓館で、山西省仏教協会主催の歓迎会に出席。午後、バスで玄中寺に向けて出発した。太原から玄中寺までは、約七十キロの行程である。

玄中寺復興落慶法要を営む

午後は大雄宝殿で、玄中寺復興落慶法要が営まれた。

まず、 中国側僧侶十五人による読経、続いて、日本側は高階団長を導師に読経、続いて、日中僧侶合同で焼香念仏、打座が行われた。

最後に中国仏教協会から、日華親善曇鸞大師奉賛会に、千仏閣で八百年来、多くの民衆に礼拝されてきた宋代の阿弥陀如来一躯が贈られることにより、趙朴初副会長から菅原会長に手渡された。これによって、この日午前八時から始まった日中合同による法要は、午後四時半には、すべて終了した。

日中の仏教徒三十余人が山奥深い玄中寺で一体となり、念仏行道、法会に参列したことは、まことにに意義深いものがある。

玄中寺で法要を終えた代表団一行は、九月二十一日、西安に到着、鍾楼、大雁塔、陕西省博物館などを参観、興教寺、大興善寺に参拝、古都の面影に接し、二十五日北京に帰った。

二十八日、国務院紫光閣で陳毅副首相と会見、二時間にわたって懇談した。席上、陳副総理は、「中国の宗教政策は、ある宗教を信仰せよとか、信仰するなどかの区別はしないし、干渉もしない。寺院や礼拝堂の修理や経典の翻訳事業には、かなりの資金を投じ、援助している」と語った。

三十日、法源寺に参拝のあと、中国仏学院を参観、副団長塚本善隆博士が、中国仏教史の研究の成果を、二時間にわたり講演した。

十月一日は国慶節に当たり、午前十時から観礼台で記念大バレードを観覧、夜は、天安門広場の花火大会を観賞した。

仏陀の教えを共通の柱に合意

「日本と中国の仏教徒が、両国の友好促進やアジアの平和に寄与するために何をすべきかを話し合った結果、当面、全世界の人びとが脅威を感じている原水爆の禁止とその撤廃こそ、緊急の課題であることに意見が一致したのです。声明文の内容や文言の表現については、日中双方の間に、若干の考えの差異がありましたが、仏陀の教えを共通の柱として、全人類の平和を願う双方のひたむきな熱意によって、合意に達し、ここに調印、発表をみるに至ったのです」 一行は、さらに東北(旧満州)の藩隅、鞍山を訪れ、工場、鉄銅所などを見学、天津では、抗日烈士記念館に花輪を捧げ、追悼会を行った。

このあと南京、上海、杭州、天台山などの仏教寺院を訪れ、交流を重ね、十月二十三日夕刻に羽田空港着、帰国した。

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