日中仏教交流 戦後五十年史


中国から友好と平和を願う仏像渡来

ここに、一枚の古ぼけた写真がある。写真中央に白い布の式台があり、仏像が安置されている。その仏像を囲み、十四、五人の人たちが座り、立っている。僧衣をまとった人も三、四人見える。かなり、年数が経っているためか、画面は色あせている。この人たちと仏像は、どのような関係をもっているのだろうか。

仏像はどこに

一九九二年五月、宗懇(日中友好宗教者懇話会)は創立二十五周年を迎えた。趙朴初中国仏教協会会長ご夫妻、金章樹駐日中国大使館公使参事官をはじめ東京華僑総会、日中友好協会、日中文化交流協会、仏教各宗派代表など来賓多数を迎え、日中友好会館で、創立二十五周年記念式典が盛大に開催された。

式典、祝賀会が終わって、ホテルに帰った趙朴初師は、宗懇の幹部たちと、くつろいだひとときを過ごした。そのときのことである。趙朴初師は、突然、思い出したように、一同にたずねた。

「ところで、四十年前、中国仏教協会から日本仏教界に仏像を寄贈しましたが、あの仏像は、いまどこにありますか」

四十年前といえば、戦後の日中仏教交流の草創期であり、宗懇創立以前のことである。

宗懇の幹部といえども、即座に返答はできなかった。

趙朴初師がたずねた仏像は、どのような経緯で日本仏教界に寄贈されたのか。それには、次のようないきさつがあった。

アジア・太平洋地域平和会議で

一九五二年――アジアでは朝鮮戦争の停戦協定が調印されたが、依然として米ソの対立は続いていた。

こういう情勢の中で、アジアの平和と戦争防止について話し合うため、五二年十月北京で「アジア・太平洋地域平和会議」が開かれ、三十七ヵ国から正式代表三百四十四人が出席した。仏教代表も十七ヵ国から参加した。

中国代表は宋慶齢団長、郭沫若副団長以下十七人で、その中に仏教代表として圓瑛法師、趙朴初師、明暘法師の三人が出席した。

日本からは松本治一郎氏以下六十人の代表が出席する準備を進めていたが、政府は旅券の発給拒否したので実現しなかった。

しかし、南博(一橋大学助教授)、中村歌右衛門(前進座)、竜田東伍(日本平和委員会)、桜井英雄(巴商事代表)の各氏をはじめ各界の代表十三人が、ヨーロッパ経由、またはその他の方法を用いて北京に入り、会議に出席した。

中国仏教協会では、日本仏教徒の参加を期待していたが、出席できなかったことを残念に思った。そこで、日本仏教界に対する中国仏教者の平和と友好のしるしとして、日本人出席者に託して、仏像を送ることにした。

そのときの中国側の心情について、趙朴初師は、次のように語っている。

「日本と中国の仏教交流は、二千年の歴史をもっています。第二次大戦によって、この交流は中断されましたが、私たち中国仏教界では、一日も早く、日本仏教界との交流を回復し、平和と友好の関係を築きたいと願っておりました。この私どもの願いを示すため、日本仏教界に仏像を贈りたいと考え、日本代表の方に託して、お届けして頂いたのです」(『宗懇』一九九二年十月号)

仏像は南博、桜井英雄の両氏に委託されたが、南氏は会議終了後、ソ連、ヨーロッパを回って、十一月十八日に帰国、あとに残った桜井氏が仏像を捧持して十二月五日に帰国している。

仏像奉仰会準備委員会を設置

この中国から贈られた仏像について、当時の新聞、雑誌などが報道した形跡は見当たらない。

日本仏教界では、中国から贈られたこの仏像を、どのように受け入れるかが、大きな問題になった。「全日本仏教会」が率先して、この仏像を受け入れるべきであると考えられたが、全仏は、中国(中共)とはかかわりたくないという姿勢であった。そこで、有志の仏教者が集まり、協議がもたれた。何回か会合が開かれた結果、「中国仏教協会寄贈仏像奉仰会準備委員会」なる組織がつくられることになった。来馬琢道(曹洞宗)、妹尾義郎(日中友好協会)、中山理々(真宗大谷派)、壬生照順(天台宗)、柳宗黙(臨済宗)の諸師が会の代表となった。

この仏像の正式の受け渡し式は、翌五三年一月十二日午後から、京橋公会堂で関係者二百人が出席して行われた。仏像を中国から委託された南、桜井両氏が所用で出席できなくなり、代理の畑中政春氏(日本平和連絡準備会事務局長)から、仏像奉仰会準備委員会の代表(来馬琢道師以下四人)に仏像が手渡された。

この仏像をどこに安置するか、準備委員会でも話し合ったが、とりあえず、代々木の新生活会館に仮安置された。

仏像の行方

さて、趙朴初会会長から、仏像の所在を聞かれて、返答に窮したことは、さきに述べた通りだが、仏像渡来からすでに四十年、当時の人たちはほとんど故人となり、世代も変わってしまった。代々木の新生活会館に仮安置されたあとの仏像は一体どうなったのだろうか。ここに、その手がかりを示唆する記録が、妹尾義郎日記の中にあるので、引用してみる。

「これは、仏像が再び代々木の新生活会館から、法要のために、浅草本願寺に移されたことを示している。法要のあと、仏像は再び、新生活会館に戻されたのか、または、ほかの所に移されたのか、このことに関係のある記事が、中外日報(昭和二十八年四月十八日付)に載っている。「銀座三笠会館で中国仏像報告の集い」の見出しである。来馬琢道、中山理々、菅原恵慶、壬生照順など仏像奉仰委員会の諸氏が、中国から帰国した平野義太郎氏(在華同胞帰国打合会副団長)を、四月十四日、銀座三笠会館に招いて「報告会」を開いた内容である。

さらに同記事には「奉仰委員会の打合会で、現在、浅草なつめ寺に仮安置されている仏像は、菅原恵慶師の提案により、台東区永住町の華蔵院(壬生照順住職・善光寺東京別院)に安置されることが決定した」とある。

これをみると、仏像は法要のあと、本願寺から近くのなつめ寺に移されたことがわかる。 そして、その後の打合会で、仏像は、なつめ寺から華蔵院に移され、安置されることになったわけである。以来四十年、仏像は果たして華蔵院に安置されているのだろうか。

華蔵院を訪ねる

筆者は、仏像を求めて華蔵院を訪ねてみることにした。住職の壬生照順師は、すでに亡くなっていたが、あらかじめ来意を告げておいたので、満子夫人が快く迎えてくださった。仏像のことをお伺いすると、まさしく、中国から渡来した仏像は本堂の奥深く、静かに安置されていた。お厨子の中におさ収めれた仏像は薬師如来の坐像で、仏身は二十五センチほど、ほんの暗い光の中にも、鮮やかな金色の姿を見せていた。思わず礼拝、合掌する。

四十年前、はるばる二千キロの海を越えて日本に渡来した薬師如来、中国仏教徒の平和と友好の願いをこめてやってきた金色の使者・薬師如来、趙朴初師の問い合わせを受けてから、さまざまな資料や記録をあさり、多くの人々に尋ねるなど仏像を探し求めて四ヵ月――ようやく、念願の仏像にめぐり合うことができたのである。

この仏像についての記録や資料があるかどうかを満子夫人にたずねてみた。雑然と積まれた多くの資料の中から、満子夫人が見つけてくださったのが、冒頭に述べた一枚の古ぼけた写真なのである。

満子夫人も趙朴初師もすでに亡く、金色の薬師如来は、日中の平和と友好を見守るかのように、そのまま、華蔵院に安置され、手厚く供養されている。

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