日本仏教使節団が戦後初めて中国を訪問

戦後十余年を経て、初めて日本仏教代表団の中国訪問が実現することになった。

一九五七年一月、中国仏教協会から、日本仏教徒の中国訪問を招請する正式招待状が、全日本仏教会に送られてきたもである。

この招待状によると、北京で催される仏誕二千五百年記念法要と山西省玄中寺の落慶法要に日本仏教徒の参列を歓迎しているのである。

日本仏教界では、浄土教の聖地である玄中寺が戦争で破壊され、その修復に大きな関心を寄せていただけに、この招待状は、おおきな朗報として迎えられた。

全日本仏教会は早速、各宗派と協議して人選を進めた結果、高階瓏仙団長など十六人の訪中団員が選任された。

難航した査証(ビザ)申請

全仏ではこの団員の名簿をもとに、中国訪問の査証(ビザ)を外務局当局に申請した。しかし、予期せぬことが起こった。副団長塚本善隆、団長牧田諦亮両氏の中国訪問に、外務当局が難色を示したのである。両氏とも、京都大学に奉職していた。

「国家公務員である者が、国交のない国を訪問することは認められない」というのである。当時、日本と中国の国交正常化交渉は、さまざまな障害により、依然、不透明な状態が続いていた。

しかし、全仏と塚本、牧田の両氏は、政府につねば強く、ビザ発給の交渉を続けた。このときの状況について、牧田諦亮氏は次のように語っている。

「あのときは、政府側と何回も話し合いましたが、なかなか、出国許可が得られず、随分、苦労しました。やっと査証(ビザ)が下りたのは、羽田から出発する十時間前のことで、ぎりぎりでした。しかも、大学の給料は旅行期間の分を差し引くというのです。」

このようにした、一行十六人は、九月十日羽田空港を出発、香港から中国に入り、列車で広州、武漢を経て、十五日午後十時間半すぎ北京駅に到着した。

駅頭には、喜饒嘉措中国仏教協会会長、趙朴初副会長、巨賛法師、周叔迦居士をはじめ多数の僧侶、信者が出迎え、子どもたちから団員ひとり一人に花束が手渡されるという、盛大な歓迎を迎えた。

初の日中合同法要

翌十六日午前十一時半から、北京飯店で中国仏教協会主催の歓迎昼食会が開かれ、日中双方の仏教徒が初めて一堂に会し、親しく懇談する機会がもたれた。

続いて午後二時半から、広済寺で仏誕二千五百年記念、中日友好世界平和祈願の合同法要が、日中の参加者百人により営まれた。中国側の導師は、広済寺住職・大悲法師、日本側導師は高階団長がつとめた。このあと別室で、日中両国の祖師に対する報恩法要も執り行われた。

またこのとき、全仏から中国仏教協会と毛沢東中国政府主席へ、それぞれ観音像、周恩来首相、李徳全中国紅十字会長へ記念品を贈る贈呈式と、戦時中、青島の白雲寺から日本に持ち返った釈迦牟尼仏像一体の返還式も併せて行われた。

このように戦後、永らく閉ざされていた両国仏教徒の交流は、合同法要などを通してようやく扉が開かれたのである。

『日中仏教交流 戦後五十年史』より

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