修行と仕事 《下》

我々が師匠との信頼関係が深まったためか、師匠が我々への問題の指摘にも遠慮が見られなくなった。子路の「人、之に告ぐるに其の過ちを以てすれば、則ち喜べり」ほどの度胸はないが、少なくとも心から感服していて、悔やまずにいられる。これはとてもいいことではないか。

「衆生を済度するには、発心だけじゃ無理だ。善法の修行に励むべきだ。」師匠はまた強調している。

「我々が仕事をすることと修行とはどうもうまく繋がらないようです。」という召集者の疑問を聞いた師匠は次のように言った。

「何が仏法か」「何が修行か」と、なぜ皆さんに再三聞くのか。仕事そのものが修行なのだ。経歴は心を鍛えるというように、仕事自体は最高の修行だ。さもなければ、毎日部屋に閉じこもって、 人や事に対面しないと、どうやって修行できるのか。」

「修行と仕事との関係は、とっくに話したし、『法炬』にも発表した。普段経典から学んだことを実生活に移すのが最も大事だ。そうでないと、学んだものは机上の空論に過ぎない。」

「そういえば、私たちが長い間学んだのは教条主義ばかりじゃないか。」と私が横から口を出した。

「早くも前に君たちに注意したのだ。教条主義、書物主義って。」師匠もニッコリとした。

「生半可な人も少なくない。食べたものは消化できない。消化できないと吸収できない。だから問題を起こすんだ。」

これはまさに大問題だ。修行と仕事と軌を一にすべきことは師僧が長い間教えてきてくださったし、我々が理論的にも認知できた。にもかかわらず、我々は依然と文字の上にとどまっているに過ぎないようだ。いざという時、本能的に疲れや面倒を嫌い、引っ込みがちになり、聞思こそ修行だと思ってしまうのはいずれも自己保護でしかない。「習性の力はまさに恐るべし」。だが、本当の修行はこういう時にこそ習性に逆らって進むべきものだ。そうでなければ、希望なんかあるはずがない。

「自分がますます空っぽになっているような感じがします。」と躊躇を表した召集者を師匠がまた励ましてくださった。

「何も恐れることはない。空即ち有だ。自分の不足を知るからこそ進歩できるんだ。」

「居士たちはなぜ集まらないのか。今の君たちにはただ横的な引導しかない。僧団も横的で、俗衆も横的で、だから集まらないのだ。組織構成があるとはいえ、それは紙に書かれているものでしかない。管理というのは階層性があるものだ。横的なものを二つ並べていると、一個人は組織を代表することはできない。そういうわけで、言いたいことも伝達できないし、増上縁にもならない。」

「居士たちは互いに納得しない。」と召集者が言った。

「それだからこそ、説得する、宣伝引導する、調整する必要があるのだ。そうして初めてもっと合理的になる。」と師匠が説得した。 管理というのは本当に容易いことではないようだ。大勢の人が協力することはそう簡単には行かず、時間が必要なのだ。

「真の善知識はあらゆる衆生を所縁の対象としているものだ。どの寺に住んでいるのか、どの寺で仏法を講じたのかということはその寺にだけ所属するわけではない。自分よりもっとできのいい人がいるのかもしれない。仏経の中にこういう公案がある。仏陀が弘法のため天界から降りたところを、みんなが出迎えに行く。蓮花色比丘尼は帝釈に変身して、一足先に仏陀に会うようにしたところ、仏陀に叱られた。「一番先に会えたのはお前じゃないのよ。須菩提なんだ。」須菩提尊者はその時どこにいるのかというと、とっくに洞窟で入定し、空性を観じているのだ。だから仏陀が言うには、「若し色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行ずるものにして、如来を見たてまつること能わざるなり」と。仏法と相応しているからこそ、真の意味の善知識と相応できるということだ。

真の善知識はあらゆる衆生を所縁の対象とするのだ——師匠はまた特にこのことを持ち出した。これは弟子の皆がよく考えるべきことだと思う。

師匠がお忙しいところを見ると、私たちはおいとましようとした。我々召集者のプレッシャーがまだまだ大きいことに気付くと師匠がまた慰めてくださった。「大丈夫だよ。法会は成り行きに任せよ。一切は業感縁起なんだから、すべてのことは皆の共業だ。力を尽くせば結構だ。」

「今度こっちに来たら、質問をするばかりじゃない。方法も考えて解決案を見つけ出すのだ。毎日これほど多くのことを熟さないといけないものの、またいろんな問題が出されるなんて。」

「仏誕、灌仏会のお祭りはそれほど大人数大規模にやらなくてもいいんだ。仏法を学ぶためのもんだから、世間でいう娯楽ではない。世間の人は気勢を張るためにやるのだが、我々はそうじゃない。」

「自信をもってやりなさい。問題があるのは成果がないわけじゃないし、成果があるとしても問題がないわけでもない。」と師匠の言葉を聞いて、その慈悲を感じていた。その慈悲は世間の気配りや挨拶といったようなもんではない。弟子たちが一日も早く成就するために受け持つ機会を作り出したり、負担をかけたりすることによっていろいろと手を取って教えてくださる慈悲なんだ。そうすると、我々の生命の中に確実に成長するものがある。このような練磨がなかったら、仏法はただの良き気晴らしに過ぎず、我々の生命に刻むような真実味がない。

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