成長の楽しさ《2》

オリジナルタイトル《見聞覺知を師と共学》[171-2007-0415]

そうですね!私は何を心配しているのでしょうか。何を求めているのでしょうか。分からなかったら教えてもらえばいいんじゃないですか。なんでも勉強という気持ちでやって行けばどんなに楽しいことでしょう。いつも師匠の衣鉢を受け継いで、有情のために仏になるようと言い張りながら、いざという時、前へと進まないのです。結局のところ、自分のメンツのためなのです。

「仕事に自信がないところを見ると、お前は『楞厳経』の殊勝には認識が足りない。『楞厳経』の中国に伝わる経緯を振り返ってみては感動しない?」

「『楞厳経』はずっとインドに国宝として重宝されてきたが、当時には外部に流すことは許されなかった。昔、インドへ参学に行った中国僧はこの経を見ることができなかった。玄蔵法師も十七年間のインド滞在中に見たことがなかった。隋の智者法師は『法華経』を説いて、法華三昧を体得し、天台教観を創立した。当時、一人のインド法師が智者法師の天台止観を見て、「楞厳」とよく似ていると言った。智者法師はそれを聞いてから天台に拝経台を建て、毎日西方に向かって礼拝し、『楞厳経』が一日も早く中国に伝わるようと願って円寂まで十八年経っても、『楞厳経』を目にすることができなかった。百年余り過ぎて、唐の時代になると般刺密帝尊者は何度も『楞厳経』をこっそりと中国に持ち帰ろうとしたが、インドの税関に差し押さえられた。仕方なく尊者は数年かけて経典を小冊子に書き上げて、それから、腕を切り、肉の中に隠し、それから縫い合わせて、傷口が治ったら、またそれを持ち帰って、やっと『楞厳経』を中国に伝えた。」と師匠は言いました。

この歴史を振り返ってみるたびに、私は心を驚かされます。「般刺密帝尊者がいないと、私たちは『楞厳経』を学ぶことはできないんです。」

「あれほど大きな危険を冒し、あれほどの苦痛を堪える尊者を見ると、法会という小さな困難は比べられるもんか」と師匠は言いました。

本当にお恥ずかしいこと!

仏法を学ぶ目的は心に尽きることのない力を育むことにあると師匠はよく言っています。どうして尊者はあれほどの大きな動力と勇気を持っているのに、私たちは持っていないのですか。

「普段、学んだ道理は実際と結び合せて初めて有用になる。そうでないと机上の空論にすぎない。」

「ごもっともです。私はいざ仕事をすると混乱してしまいがちです。ますます仕事の重荷を引き受けることの大切さが感じられます。」

「実は理論、修行と仕事は三位一体。例えば、科学技術には世界を解釈する理論があるが、もし解釈に止まれば、あまり役に立たない。肝心なのは科学には創造と発明がある。発明が出されたら、その影響は深遠なるものだ。仏法の場合も同じく、世界への解釈があってから、また創造、自分の業力を創造して、仏法の世界を創造するのだ。」

「確かに私たちが実際にやったことは少ないです。」

「多くの人は目の前の事を大切にしないで、他のもっと良い事に心を掛けている。そのことをするとなると、また大切にしなくなる。しかし、仏法が強調しているのは目下の造業なのだ。つまり、自分が今何をやっているのか、何の業を造っているのかよくわかっている。実はとても簡単な事だ。もしどこかに行って、何かの活動に参加したら、身の業ができ、話をしたら語の業ができる。とても実在なものだ。」

「今を生きるのは難しいです。」

「さもないと、毎日授業や検討をすることは教法を作り上げることになるか。例えば、私たちは一度法話をした。それは教法を作り上げることと見なせるか。そうとも言えるが、しかし、毎日法話ばかりしていて、実務をする人や後方勤務をする人がいなかったら、どうなるか。どうやってお経をあげられるか。どうやって食っていけるか。これは分かり切った道理ではないか。だから、私たちは一所懸命仕事をして、様々の縁起を起こすことによって仏法的事業を達成しようとする。」

「今、仕事をすることに自信が芽生えてきましたが、まずやって見ることにします。」

「まずやって見るのは間違いないが、誰を相手にやっているのか、誰と一緒にやっているのか、誰を率いてやっているのかはっきり分からないといけない。世の中では仕事をするのに一つのルールがある。仏法の世界でやるのにも同じくルールがある。つまり、経験のある人から学ベば初めてよくできる。これこそ仏法のいわゆる受け継ぎという。」

私はうなずきながら、内心、さらに大きな自信が湧いてきました。

あと半月ぐらいで、“五・一法会”が始まります。これは私にとって絶妙な心理体験になります。多くの未知な事やわけがわからないプレッシャーに直面しなければなりません。しかし、これまでの経験が教えてくれるように、仕事が済んでいたら、心の中には確かな収穫と喜びが得られます。できそうにないことを引き受けてこそ福を増大することになると実感しました。自分がよく知っている事、慣れている事、簡単そうな事、プレッシャーのない事を好んでやりがちですが、しかし、それはただの重複、ただの輪廻にすぎません。仏法というのは本当に見事なものです。果てしない未知の世界に向かって歩いていくことを助けてくれる人も、方法もあります。一足歩くたびに、暗闇から光が見えてきます。一足歩くたびにそれなりの楽しみがあります。私は今、菩薩の喜びの境地を信じるようになりました。仏に成るには三大の阿僧祗劫があると言われていますが、でも、時々刻々に成長の喜びに満ちていたら、その時間がたとえ長くなっても、また何を恐れることがあるのでしょうか。

しかも、私のそばには確かに師僧がいます。よくわかってくださるし、いつまで経っても私の成長を見てくださるから、私は何を心配することがあるのでしょうか。

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