第五回世界仏教フォーラム

相互交流、相互参考、円融中道を行おう

中国台湾中台禅寺住持

釈見燈

中国とインドの文化交流の歴史を見てきた仏教は中国に伝わって以来、数千年にわたる試練と融合を経て、特に、中華文化の一部分として血肉化しました。また、宗教、哲学思想、芸術、文化、言語のシンボルになった仏教は、新時代の中華文化が世界とのコミュニケーションを支えるものとなっているのです。

『礼記』楽記に曰く「楽は同を為し、礼は異を為す。同なれば則ち相親しみ、異なれば則ち相敬す。楽勝てば則ち流るは、礼勝てば則ち離る」。交流、対話も、まさに「礼楽の道の如し」と言えるのでしょう。「共通性」があれば、お互いの親近感も増え、「共通点」を追求して初めて、相互信頼、相互援助の基礎が生じるのです。相違点を認めることは相互尊重・寛容の道徳心と言ってもいいでしょう。だが、「共通点」を一途に求めるなら、節度のない関係になるかもしれません。その反面、「相違点」を絶えることなく強調すると、疎遠な、あるいは一発即発の関係になる可能性もあるのでしょう。したがって、異なる文化とコミュニケーションし、学びあい時、如何にして「異を残して、同につく」を実現することは「中庸の道」が求められます。

仏法の発揚、大衆への救済は悟りための教育であり、心の文化との交流でもあります。大衆への救済は自分への救済と同然だと思います。「大乗の心に安住し、善く方便の門を開く」。これは修行の要綱です。『法華経』は曰く「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり 二なく亦三なし 仏の方便の説を除く」。つまり「大乗の心」は一乗の法であり、実相であり、中道であり、仏法の究極というわけです。仏は曰く「八万四千の法門は、みんな方便なり」。「同につく」は「大乗の心に安住する」の前提条件です。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」つまり、生きとし生けるものはすべて生まれながらにして仏となりうる素質をもつということを疑うことなく信じる必要があります。なぜから機根、時節、因縁が異なる衆生を済度しようなら、善く方便の門を開き、異を残した上、上根、中根、下根を問わず、皆の機縁に応じて、説法することが求められるからです。「異を残して、同につく」だけではなく、縁起から「不一にして亦た不異」という中道の実相を深く体験すればこそ、両極端に陥ることを避けられるのでしょう。

『華厳経』の中で、如来、無障礙清浄の智眼を以て、普く法界の一切衆生を観じて、而も 是言を作さく、「奇なる哉奇なる哉、此諸の衆生、云何ぞ如来の智慧を具有して、愚痴迷惑して、不知不見なる我當に教うるに聖道を以てし、其をして永く妄想執着を離れて、自ら身中に於て、如来広大の智慧を見て佛と異なることなきを得せし むべし。」と。また、わが師である惟覚大和尚は良くこのように言いました。「仏法が重視するのは、知見と行動の統一であり、実践して始めて本当の心性を悟り、仏法のご利益を得ることができます」。中道とは、思想と実践という二つの部分に分かれます。有無の二辺を離するが故に名づけて中道と為す衆生が為の故に、仮名を以て説くのみ中道を体と為す、無きを説く可らず用は有無なるが故に仮名を得る思想とは我々のイデオロギーを指します。科学技術がどこまで発展していても、諸刃の剣のような存在ということは変わらないのす。故に、中道の思想に基づく清浄、慈悲、平等、博愛の心がなければ、科学技術は人類を滅ぼすかもしれません。中道の思想だけでは、まだ不十分なので、それを行動に移し、日常生活の隅々まで生かさせること。が求められますまさにわが師がおっしゃった通りに「知の極意は能行にあり、能行の極意は真知にあり」。解行をきちんとしようなら、大乗の心に安住することは唯一の方法です。このようになったら、深遠な洞察力を持つようになり、衆生を化度する時、絶えることなく相互交流・相互参考を行いながら、「善く方便の門を開き」、円融・中道の域に達し、如来のような無限の智慧を得、一切の衆生に利益や安楽を与えることができるのではないでしょうか。

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