学誠法師、龍泉寺に訪れた大学生達と交流

3月20日に、北京大学、清華大学、中央美術学院、中国政法大学など名門大学から、計175名の大学生、凤凰嶺の麓にある千年以上の歴史を持つ古寺•龍泉寺を訪れ、「心文化の旅」となづけられた見学活動に参加しました.

午後3時、仏間において懇談会が行われ、龍泉寺住職•学誠法師が学生からの宗教、社会、個人の悩みなどのさまざまな分野の質問に対し、簡潔なことばでわかりやすく答えました.以下、いくつかの「質問―答え」ごとにまとめています.

学生1:

仏教では、「随縁」という概念が強調され、縁がなければ無理をしないことはもとより、縁があるとしても応じず、逆にその縁を除き去るべきといった意味ですが、解釈の後半の部分に対して、どうしても納得できません.機縁があったら、何故、結ばせてはいけないですか.まさに縁があるからこそ、辿らなくてすむという道理になるのですか.お教え下さい.

学生2:

病気を罹って薬を飲まなければならないとき、薬を小さな棒でゆっくりと練る住職さまを見て、もっとすぐできる方法をお教えしたいといらだった弟子に対し、ゆっくりすることが必要であり、それは「般若が潜っている故である」とお教えになったことを『和尚•ブロック』で拝読しました.「般若」とはいったい何のことでしょうか.なぜゆっくりと練らなければならないのでしょうか.また、人々が「般若」の意味を理解し、真の無憂苦の境地に到達するためには、どのような取り組みが必要ですか.

学生3:

恐縮ですが、住職さまの個人のことについて、質問してよろしいでしょうか.人間は一般的に幼い頃に医者になるか、警察官になるかなど、さまざまな夢や志を抱くと思うのですが、住職さまの場合、幼い頃に描いていた夢は何だったのでしょうか.仏教の道に入るきっかけは何だったのですか.そして、今までその道を努め続けてきた原動力とは何であったのでしょうか.

学誠法師:

一番目の質問は縁の話についてですね.この世、あらゆる存在は縁によってつながっているものなのです.縁とは、つまり条件のことで、われわれの境遇を決定する要件のことだと理解できます.考えてみましょう.今私たちはここで交流会を開いていますが、そのためにはここへ通じるバスの有無、場所と日時の知らせ、開会のスペースの有無、皆さんがここへおいでになる意欲などの前提条件がすべて整わなければなりません.人間は制約の下で生活を営んでおり、これを無視していきていくことは不可能です.たとえば、皆さんが市内からこの龍泉寺へおいでになるのに、便利な交通手段に頼らず、歩いていらっしゃったら、半日かけても到着できないかもしれないし、もし広州や上海などほかの都市からおいでになる場合だったら、徒歩はではなく飛行機か電車の交通手段に頼るしかありません.したがって、仏教のいう縁はあくまで条件のことで、これは変わらないものではなく、今日の交流会にしても、そもそも2時から始まる予定でしたが、急用が入り、3時に時間を変更するしかなかったのです.縁は随時変化しています.それに順応しないのは好ましい事ではありません.せっかくおいでになったのに、そのまま帰ってしまったら、もともと聞こうと思ったことを聞けずに、「欲求不満」による煩悩は必ず生じてくるでしょう.一方、機縁に応じれば、勉強したい知識がしっかり身につけられるし、思いがけない収穫も得られるかもしれず、煩悩はみずから除かれるのではないでしょうか.それでは、日ごろにはわれわれはどのように生活の中に、出てくるさまざまな関係のある条件にむきあうのですか.答えは、それらを重要視すること.感謝すべきこと.それに喜ぶことです.

二番目の質問ですが、薬を飲む場合は必ずゆっくり飲むことが大切だとわたしは言いましたね.「般若」も薬、薬も「般若」です.パッとしない薬でも病を治せるのは「般若」が潜っているからといって良いでしょう.般若はわれわれの「自性」を開き、智慧を掘り起こします.そして智慧を有してはじめて、煩悩や苦痛から解脱できるようになります.よって、薬をどこまで認識できるかは、奥義をどの程度まで体得できるかに依存することになると思われます.また、慌てると、間違った薬を飲んでしまうかもしれないし、ゆっくり飲む場合、間違って飲んでしまっても、早めに気づくことができ、被害や損失を最低限に抑えられましょう.

三番目の質問についてですが、確かに人々は幼い頃に夢や志をいっぱい抱いているのが普通です.皆さんの年齢でも同じようなことがいえるでしょう.問題は、いかに夢を実現するかですが、これはこつこつ努力していくほかないのです.僕は子供のごろから玄奘大師のこと、特に彼の国禁を犯して大冒険の旅をして、インドに求道の精神を探求したことを崇拝していました.在家のとき、小説の『西遊記』や仏経を読むことで玄奘大師の事績を知り、素晴らしいと思って、俺も出家しようと願望しました.もちろん仏教を信奉する母親の影響も否めません.わたしが10代の頃、ある小さなお寺で修行することを考えましたが、その寺の法師に、修行するのであれば設備や条件が良い大きな寺へ行くことを勧められました.そこで、わたしは広化寺に出家し、弘一法師の弟子でいらっしゃる圓拙法師に師事しました.枝葉末節まで述べたら、話がとても長くなりますので、今日はここまでとします.


学生4:

皆が知りたいことについて、質問をさせてください.仏教の知識を勉強するにつれて、私たちは仏教に対して非常によいイメージを持つようになり、特に「禅定」の境地に憧れるようになりました.ところが、日常生活では、どのようにして仏法理論を検証できるのでしょうか.つまり仏法をもって個人の悩みを解消し、自分の身や心を浄化させる具体策は何でしょうか.ご指導頂ければ幸いです.

学生5:

仏教の究極の目標は何ですか.実現しようとする人類社会の理想像とは何ですか.「二元論」の考え方によれば、私たちが経験している世界では、「善」あっての「悪」、つまり人為的に「美」という概念を創らなければ「醜」も存在しないと思われましょう.総じていうと、社会にっとては、人々が立身出世のことを求めるのは良いことなのですか.それとも、みんなひとつの宗教を信仰し、それにしたがって、人生観を打ち立てるのほうは望ましいことなのですか.

次にお聞きしたいのは、仏教とはあくまで人生観と価値観を引率、教育するものだという理解でよろしいですか.「了凡四訓」を拝読したことがありますが、それは真実の物語ですか.何故、単なる善行を積むことで運命を変えることができるのでしょうか.

最後の質問ですが、「六道輪廻」の意味を教えてください.

学生6:

「般若心経」の一節である「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」に対して、住職様の見解を教えてください.そして、われわれはどのように実生活においてその執着しない「空」の考え方を活用すべきなのですか.

二番目の質問ですが、私は仏教知識を触れてそろそろまる二年になります.仏教に対しては非常によいイメージを持っていますが、完全に信じる域に達するには障壁があると感じています.どのようにしてそういう障壁を突破できるか教えてください.

学誠法師:

まず、自分の心身を浄化させるという話ですね.人々は誰でも煩悩を抱えているものです.煩悩には、生まれつきのものと後天的で分別によって生じるものの二種類があります.もっと端的に言えば、煩悩とは欲求不満のことであり、是非のことであり、「不光明」のことでもあります.したがって、われわれは智慧をたとえ少しでも増やせば、煩悩はそれなりに除去されるはずです.もし大智慧、「大光明」を有するようになったら、暗黒が払拭され、煩悩も起こらなくなります.したがって、人々は智慧と「観照力」を養えば、おのずから煩悩が減少していくのです.それにひきかえ、自制心が欠如していれば、煩悩は再び内心から浮上してしまいます.要は、徹底的に問題解決するために、何より心の中からの改善が不可欠だということです.これは仏の教えである「修心」のことで、経文や戒律を唱えるなどの取り組みを通して、より正確な考え方を培い、心を修めることだと理解すればよいです.

次の質問は、「対立統一」の話ですね.午前中の座談会で、元全人代(中华人民共和国全国人民代表大会)副委員長・許嘉璐様は「東洋文化は一元論である」とおっしゃいましたね.もちろん「多元一体」の説もあるし、いろんな見方があることをよそに、二元論の立場からすれば、もしかしたら対立する場合があるかもしれないが、何時も必ず対立しているわけではありません.人間の体を見てみましょう.手足や耳は、左右対称の関係であり、排斥的な対立関係ではないでしょう.片方だけあるなら、身体障害者になり、生活も不自由になってしまいます.一元であろうと二元であろうと絶対的でなく、相対的な概念だとわたしは思います.現在の人類文明社会においては、学問の問題が無数の星の如く林立していると言っても過言ではないでしょう.仮にわれわれは智慧が不足のままで、西洋のものであれ、東洋のものであれ、とにかくたくさん受け入れ、それに専念し研鑽しなければ、雑学に迷走してしまい、その全体の理解に到達できなく、心の困惑もさけられないでしょう.車や飛行機のように、さまざまな部品で形成されているものは各部品がスムーズで有機的に結合しないと機能はしません.一方、対立する場合も常にありますね.外国語が不得手な人は、外国語を母国語と対立して見るかもしれませんが、日頃から絶えず学習することによって、次第にそういう外国語に対する抵抗感を払拭できるはずでしょう.

次は輪廻のことですね.輪廻は必ず存在するとわたしは断言します.一年間365日は一つの輪廻となり、皆さんの「寮―教室―食堂」式の大学生活も一種の輪廻となります.一回りでも輪廻であり、誰も例外ではなく、ただ形式が異なるだけです.一方、人間と「天人」の場合では違うように理解する必要があります.人間と「天人」とも変わりつつあるが、いくら変化するとしても、回りの軌道、つまり「六道」を乗り越えることが不可能です.

次の質問は、「色」と「空」の関係の話に帰結しますね.その関係について、小乗と大乗は異なった理解をしています.小乗の解釈は「滅色入空」、つまり、物事に対し、分子、クオークまで分析を行い、結局に「色」は存在しないという結論に至りました.それに対し、大乗の方は「縁起」をもって観察することによって、「縁起性空」という結論に結び付けました.大乗仏教の「空」とは、この世のすべての物事は、相互に関係していて、固定的実体のない、実体性を欠いているという意味です.つまり、存在しないわけではなく、ただ実体の表れない存在なのです.「色即是空、空即是色」はそこから由来します.仏教の教えを踏まえると、絶対変わらないものがないので、われわれの目に見える様々な仮相に惑わされず、執着するべからずという生存の態度が導かれます.


次は、仏法を学習する過程で遭遇する障碍についての質問ですね.それはごく普通の状況ですから、特に憂慮する必要はありません.仏法を理解しようにも理解できない時のみ心の中に障碍が生じるわけではなく、勉強の中でどうにも解けない問題が出た時、自分の言いたいことを的確に伝えられない時、他人に理解してもらえない時でも障碍は生じることがあります.先、話したように、世間において、すべては因縁に係わっています.因縁がなければ、障碍が生じてくるのです.また、内心に障碍があれば、いろいろなところに現れてくるのです.その影響力は程度の差によるものでしょう.

仮に、あなたの両親、或いは先生や兄弟が入院して手術を受けなければならない場合、あなたは早急に医者とコミュニケーションを取らなければならないし、薬や入院手続きにも気を配らないといけません.このような自分と深く関わることであれば、誰でもきっと気を遣うに違いないし、困難や障碍を乗り越えるよう努力するに違いないのです.対照的に、日ごろには、クラスメートを誘って講座を聞きに行くことや、どこかへ旅行に出かけることなら、共に行ってくれる人がいなくても、それほど気にしないでしょう.これはやはり事をする意味に係わります.

わたしが福建にいる時の出来事です.ある日、福建仏学院の一人の学生は、お爺さんの危篤通知で帰省休暇を申請してきました.もちろんわたしは許可をしましたが、彼が帰る途中の福州で、お爺さんがお亡くなりになった悪報を聞かされて、実家へ帰らずに、そのまま悲しくて学院に戻ってきてしまいました.わたしが帰らせようとしても、「他界してから復活できないし、帰っても意味がないです」と彼は言って、寺に残り、読経を始めました.人々の認識レベル、既存観点の相違によって、見方や考え方がずいぶん異なっていますが、善し悪しを決めるのは難いことです.世俗の価値によれば、一般には身内が亡くなったら、子孫として葬式に出ないと、親不孝とは言わないまでも、正しいこととは言えないという先入観があります.しかし、仏教の見方からすれば、身内がなくなる場合、寺へ参って読経する方が適切です.

学生7:

現在の目まぐるしく変化する工業化•情報化社会の中で、しばしば自分を見失い、不安はつのり、心が乱れるのは現代人の宿命のようにさえ思えます.このような時代だからこそ、仏教は意義あるものとなりえるのです.ただし「衆生を済度する」と標榜する大乗仏教は、悟りによる個人の心の安らぎより、社会全体への奉仕のもとに、人類社会の心のよりどころとなるべきだと思われましょう.それでは、どのようにしてこれを達成できるのでしょうか.また、もし人々が競争意欲を失い、単に安逸な生活を送るように望んだら、社会の高度産業化進行が妨げられ、技術進歩による産業革新の機運を取り逃してしまうのではないでしょうか.住職様はどう思われますか.

学生8:

この世はままならずとかく遺憾や煩悩に遭遇しがちですが、『了凡四訓』の述べた善行を積む、もしくは、読経すること、いわゆる、般若智慧で願望を実現できるのは真実のことですか.二番目の質問ですが、世間において、どんな方法で求める夢を叶えるのですか.また、いかにして仏の教えを学ぶにしたがって、正見が立てられ、引き続き先へと歩んでいき、それで、生命の価値があがるのでしょうか.

学生9:

毎日雑事に煩わされている中、今日は心を浄化させようと思って、龍泉寺にやってきました.私はストレスが溜まっています.何故なら、人生の取捨選択に面しているからです.どの道を選ぶか決定を下しにくく、選択することでさえ避けたい気持ちです.何かアドバイスでも下さったら幸いです.

学誠法師:

現在の世の中は確かに騒がしいと思います.何故そんなに騒ぎ立てているかというと、とにかく社会の発展と変化のスピードが速すぎているからだと思われます.昔の中国は農耕社会で、どちらかというと静止的で閉鎖的でした.ところが、近代工業化、情報化とともに、世界は技術革新による物理的な一体化と、経済的な一体化も進んできました.これを受けて、社会は動学的なメカニズムによって営まれるようになり、他国の変化を無視しながら自国を発展する国がほとんどなくなり、人々も周りの人の言動に影響されずマイペースでこだわりのない生き方もできなくなりつつあります.

現実に直面して、仏教は「衆生を済度する」ことを自分の務めにしています.具体的にどのように操作するかについては、こつこつ頑張っていくしかありません.この龍泉寺でも五年前に教団はなかったですが、五年後の今日、百名以上の比丘と、たくさんの居士、ボランティアがここで修行、生活していますよ.ただし、すべての人を出家させるのが非現実的仮説ですが、ほかの宗教もこの点で同じでしょう.すべての人を同一の宗教に帰依させることは現実とは言えません.

次の質問は、仏法を学習する上、如何に取捨選択をするか、如何に自分のレベルを向上させるかについての話ですね.さっきお話ししたように、多くの場合、選択せず回避するのは不適切だと思います.自分が決定を下さないと、確かに捨てるものはないが、得るものもなくなります.更に言えば、自分が回避したとしても、問題がみずから解けるわけではありません.考えてみましょう.あなたは、全く知らないしゃべったこともないクラスメートといえども無関係と言えるのでしょうか.そうではないでしょう.同じ集団の一員ですから、勉強やクラブ活動などさまざまの面において関係が繫がって、協力し合い、互いに影響を与えるはずです.


「利」と「義」の関係について、儒教は昔から千年余りわたって検討してきました.合理的な富の分配は非常に重要であり、そうでなければ社会格差が拡大してしまい、社会不安をもたらしかねません.「利」より「義」を重視する人はいますなら、それに反対する人も必ずいます.古代中国では、両親に叩首の礼を捧げるのは一般的でしたが、現在では、跪いた上で行うお礼はなくなりました.しかし、そのために今日の人は親不孝者になりますか.それとも、現在の社会は倫理が崩壊したのですか.そうではなくて、それは判断基準が変わったからです.昔の規準で今日の事情を判断するのは明らかに不適切です.わたしが言いたいのは、異なる時代、異なる地区、異なる文明、異なる文化背景では、価値観が必ずしも同一ではないということです.「義」、「利」、「善」、「悪」、「是」、「非」などの概念は、異なる時代、異なる判断基準、異なる価値体系によって、定義が異なることがあります.しかし、肝要なのは「理論と現実とを連携する」ことなのです.日常生活の中でさまざまの物事に巡り会います.この物事はそれぞれに差別があります.経済改革初期、国は財政力が弱いので、外国からの借款をしました.それから、三十年経つと財政状況が一変して、アメリカの国債を買いました.米ドルも平価の切下げが行われました.現在の中国は、市場経済メカニズムを導入し、競争的なビジネス社会になりつつあります.飛躍的な経済発展を遂げたにもかかわらず、貧富の格差をはじめとする様々な社会問題も抱えております.それらは、すべて衆生の業であるのです.

学生10:

人生とは恐怖心を追い払い、究極の快楽という目標に向かっていくものだとわたしは思っています.仮にこの仮説が正しければ、智慧の有無にかかわらず、ぼんやりしてただ単に快楽を求めて生活していけばよいのではありませんか.敢えて智慧を探求するのはかえって苦痛や煩悩をもたらしてしまうのではありませんか.二番目の質問ですが、中国語では人々が宗教を語るとき、「心誠則霊」という言葉がよく使われます.これは、仏様や神様に対し心が誠で疑いなく信じて捧げさえすれば、必ず加護を受け、期待通り望みを遂げてくださる、という意味だとされていますね.しかし、わたしはこれには到底納得できません.何故なら、これが正しいならば、もしすべての人々が誠な心をもって智慧や財産を願望として拝んだら、すべての人々の願望が期待通り叶えられることになってしまいます.このようなことを信じるとすぐ苦しみがなくなります.もし一つの目標は20年か、50年の月日をかけて実現できるのならば、その目標を立てたときから、嬉しい日々を送られるわけですね.「心誠則霊」という言葉をこのように理解すればいいでしょうか.教えていただけませんか.

学生11:

複数の寺院の住職を兼ねておられるそうですが、住職様はどのようにこれらの寺院を管理なさっていますか.寺院という組織は一般の組織と違うからです.そして、寺院の発展目標の設定や、寄付金の取り扱い状況に関して、お差支えなければ簡単に紹介していただけませんか.

学生12:

近代科学、及びその発達に意味される人類の自然を征服、改造する物理的な力の向上は、倫理上で中性であり、これを使う人類の意思によって善し悪しが決まります.仏教の観点からすれば、そうした技術進歩とそれによる社会の工業化は、人類の持続的な生存にとってメリットとデメリットのどちらの要素を多く持っているでしょうか.二番目の質問ですが、仏教は人類社会の競争を認めますか.社会発展の過程において、「競争」の働きかけについてどのように認識しておられますか.三番目に、午前中許先生は「人間は信仰がないと生きられない」とおっしゃいましたが、これについてはどのようにお考えですか.ご意見を頂けませんか.

学生13:

「真理」の真偽を区別しがたく、様々な誘惑にさらされるこの世では、われわれが仏教を学ぶ意義、修行する意義はいったいどこにあるのでしょうか.

学誠法師:わかりました.

はじめに、智慧がある人と智慧がない人と必ず区別することから始めましょう.例えば、知的障害を持つ人にも、普通の人と異なっているかもしれませんが、正常な人は、あまり意味がない行動を取らなく、規範を踏まえた合理的な行動でなければ実行しないでしょう.知的障害を持つ人の場合なら、意識はあっても思惟がないので、行動はいつも合理的であるとは言えません.智慧がある人は、花の咲きや落ちなど四季の現象から道理を発見でき、自分の目に見えるあらゆる現象に対して、合理的に解釈しようとする意欲があります.智慧がない人の場合であれば、そういう意欲がなくて、一生ぼんやりして価値を体得できないかもしれません.


「心誠則霊」という言葉によって表現されたことが確かにあります.ただし、本当に誠であるかどうか、時間が解決することではありません.単に仏法を学習する時間が長いから信仰が深まるというわけでもありません.最初はとても敬虔で、時が経つにつれて気を抜いてしまう移り気の人もよく見かけます.疑いがちで心が誠でなければ、見た世界のあらゆる存在や内心の信念が真実でない虚構になってしまい、もちろん仏様の感応も頂けません.したがって、誠な心を保つこと、そして、これを少しずつ浄化させ養成していくことが非常に重要です.

仏道では、何より敬虔、根気、本願を重んじます.ですから、多くの祖師大徳はこの三つをよりどころにして、努力を積み重ねて、すばらしい実績を上げました.寺院に出家して修行するほうが在家より学習効果は高くなります.なぜなら寺院には勉学の条件や環境が備わっており、薫陶を受けられるからです.皆さんが大学で学業を修めると同様に、ひたすら専念することが重要です.さもなければ学習効果は問われるのでしょう.

もう一つの質問は、わたしの方丈としての時間配分、人事管理、募金の取り扱いに関する現実問題ですね.この龍泉寺では一連の企業と異なる管理モデルや理念を定めましたが、まだまだ改善する余地はあると思います.一般に、寺院には企業倒産のようなことはなかなか生じないです.数百年、千年以上の歴史を持つ寺は珍しくはありません.何故、寺は「千年老舗」のように活力を長く維持できるのでしょうか.背後にはきっと要因があり、思想理論以外にも寺院ならではの管理制度、人事制度が考えられます.

ですから、学歴と、社会経験、見聞などは、人々の成長や出世に深く関わっています.皆さんは学校を出てから、社会の様々な試練を受けなければならないのです.世俗社会で生計を立てている人々は、競争の場にいて、ともすると淘汰されてしまいます.また、世俗社会では、いつも現実利益を追求し、効率、製品、市場、管理、政策、国際影響など、各方面の制約を受けており、どうしようもなく倒産せざるをえない場合もよくありますね.そして、現在は、人間関係、人間と物事の関係、環境との関係なども危機的な状況に陥っているのも事実です.それと対照的に、仏教は世俗社会と違った成長条件や雰囲気、土壌を人々に提供します.仏道の中に修行する人は、現世の利益でなく来世の福徳のために努力する点を改めて強調したく思います.

次に、信仰と科学の話ですね.宗教信仰と近代科学は、対立な存在ではありません.科学技術の是非についてはケースバイケースです.月に行くこと、または、アメリカや地球の各地へ旅に出ることは科学技術に頼らないと実現できません.今日ではインドへ行くのに一日もかからず、玄奘大師の数え切れぬ苦労の旅は今の社会では考えられません.したがって、技術進歩によってわれわれの生活は便利となり、時間も空間も縮まったような感じを受けます.一方、おっしゃる通り、科学技術が悪用されることもあり、例えば、現在各国の持つ核兵器の総和は地球を何回も壊滅できるほどの量だということも事実です.

最後、仏教を信奉する意味甲斐についてですが、仏様は目覚めを開いた人間で、衆生に悟る道を教えておられます.悟ることで、はじめてしっかりとした人間としてきちんと勉強をして仕事をするようになるはずです.これはとても重要なことです.仏教は、人々を成功者にするのではなく、利他の人、衆生を済度する人、衆生を救済する人にする教えです.これは、優れた信念であり、仏の境地でもあります.学生の皆さん、あなた方はご両親のお世話になっているのでしょうが、社会に出たら自力で生計を立てて行かなければなりません.寺に出家して修行する人は、生計の憂慮をしなくても結構です.たくさんの善男善女が、ここへやってきて、献香したり、参拝したり、食べ物を寄付してくれたりするからです.

それでは、いったいわれわれは仏様に何を教えて頂けるのでしょうか.われわれにとって仏教を信仰する意義は何でしょうか.考えてみましょう.観音菩薩は、三十二化身をもって人々を苦難から救い出す無限の法力の持ち主でいらっしゃいますが、すべての化身下降は慈悲深い姿でいらっしゃるわけではなく、剣、斧をお持ちになるイメージもあります.悪人に遭って被害を受けそうな時には、このような観音菩薩の加護を求めるでしょう.要するに、信者に感応を下さり、慈悲、智慧、平等、本願力を加護して下さるのです.

 

 

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