アティーシャの啓示

諸法師方、在家信徒の皆さま:

仏の教えを学ぶときはよく、菩薩の道を行くということに触れますね。菩薩の行く道はわれわれ普通の人の行く道とはどう違うのでしょうか。菩薩の行く道は菩薩道と言われています。仏の教えを学ぶ目的は成仏することです。

菩提心を発し、修行し、菩薩道を行うことの目的は同じく成仏することなのです。われわれは仏の教えを学び、そして成仏するためには、まず菩薩に習うことが必要です。具体的にいうと、つまり菩薩が菩提心を発すように、われわれも真似て菩提心を発し、菩薩が修行するように、われわれもそれに従って修行し、菩薩が行うように、われわれもそれを真似て行うことです。 菩提心の発心や菩薩の道の修学はそれほど簡単にできるわけではありません。容易に発心したり、修行したり、学んだりすることができないからこそ、焦らずにゆっくり発心し、修行し、学ぶべきです。少しずつ学び、一歩一歩着実に学び、そして毎日欠かすことなく学んだほうがいいと思います。

仏門に入って仏の教えを学ぶことはこれらの内容を学ぶことです。如理に修行するということはよく言われていますが、つまり自分自身の理解しているような道理ではなく、仏が教えてくださる道理に従って修行することです。われわれ自身が理解した道理によって修行していくと、困難や問題が多く出てくることになります。それは、われわれの仏教の道理に対する理解がまだまだ浅く、足りなくて、ひいては偏っていて誤りもあるためです。仏陀が教えてくださる道理に基づいて修行すればこそ、正しく、円満になれます。皆さんもご存知のように、過去にチベット地域においてアティーシャという非常にすばらしい修行者がいました。彼はチベットで多大な貢献をなさいました。当時の菩提光という人がアティーシャを迎えに行ったのは、すばらしくて系統的に整っている仏法を導入して、チベットの衆生を利益するためでした。当時に、アティーシャは「菩提道灯論」という本を書きました。この本は、まさにいかに修行し、いかに菩薩行を学ぶべきかといった道理を教えてくれました。

 どうして当時、この論蔵の経典がチベットにおいてそれほど大きな影響力を持っていたのでしょうか。原因は当時のチベットにはランダルマ廃仏という運動があったことにあります。この廃仏運動の期間中、およそ百年にわたってチベットには僧侶はおらず、仏典や仏像もなかったのです。数少ない僧侶が還俗したため、在家信者たちの間で、ほんの少ない人数ですが、仏の教えを口伝えしていたのでした。しかし、伝えられていたのはほとんど真言だけでした。真言は比較的簡単なものなのです。チベットにランダルマ廃仏運動があったころは中国の唐の時代の武宗の廃仏の時期にあたり、ほぼ同じ時期ですね。漢族地域において、武宗の廃仏運動の後は禅宗が非常に盛んになりました。その原因は多くの仏教の経典が滅ぼされてしまって、僧侶や在家信者が仏典を読むことができなくなり、山の中で座禅を組むことしかできなかったのです。当時のチベットにおいても同じです。多くの仏教徒は仏典を読むことができずに、毎日真言の暗唱しかできなかったのです。そのような状況でしたので、真言の中には仏教ではない内容も多く入り混じってしまったのです。ですから、アティーシャはチベットに来て、この本を書いて、これをもって当時のチベット仏教界における多くの問題を正すわけです。アティーシャ自身も生涯にわたり、修行のことを非常に大事にして、仏教の中の顕教の布教を重要視していました。例えば、さきほどお話した「道灯論」は非常にすばらしい論蔵の経典です。菩薩の道を修行する目的は内在の煩悩、内心の煩悩を断ち切ることです。では、どのようにして内心の煩悩を断ち切れるのでしょうか。それは智慧に頼る方法しかないのです。如何にしてわれわれの智慧を増長させることができるのでしょうか。答えは仏の教えを学ぶことです。

具体的にはどのように仏の教えを学べばよいのでしょうか。経·律·論を習うのも一つの方法です。経·律·論の中のお経や内容を習う目的はその奥深い意味を理解することです。われわれに経·律·論を習う基礎条件がまだ整っていない場合は、どうすればよいのでしょうか。それは、善知識や法師に学ばなければならないのです。法師は長く学びましたのでお経に対する理解がより深いため、より正確に、そして深く解釈することができます。われわれは、特に学び始めたばかりのときは、お経を理解することがなかなか難しいのです。お寺の中では、仏の教えを長く学んだ法師や同行善友がほんの一言だけを言ったにもかかわらず、その一言が非常に意味深いという場合がありますね。どうしてこんなささいな一言にそれほど深い意味合いがあるのでしょうか。それは、その一言がそのときのあなたに役立つからです。つまり、あなた自身の目下の問題と関係のないことを言っているわけではないのです。もしその一言があなたの実際状況とまったく関係がなかったならば、そのささいな一言もささいなままに聞こえて、ひいては無意味な話になってしまいます。

言い換えれば、非常に簡単な言葉で仏の教えの意味を表せば、われわれは比較的容易に理解ができるということです。つまり、仏の教えは日常生活の中にあり、言葉や文字などはその道理を説明する道具でしかないのです。現在では言葉は非常に豊富になりました。われわれもこれらの言葉や文字を借りて、仏の教えを伝えたり、広めたりする必要があります。これらの言葉や文字を通して心の交流という目的を達成でき、皆さんも出家した法師たちの仏法に対する理解の境地や体験、法師たちの智慧を認識することができるのです。言葉を通して学ぶのでなければ、初心者にはとても難しいのです。皆さんはお寺に来て、出家した法師たちや同行善友に習う一方で、経·論に基づいて学ぶ必要もあります。どちらに偏ってもいけないのです。仏の教えを学ぶ目的は内在の無明煩悩を断ち切り、智慧を増やし、内在の戒·定·慧の力を増長させることです。

お寺の中ではよく日常の仕事をしますね。例えば、皆さんはここでボランティアで、掃除などをしますね。お寺の中の清掃作業は街の掃除を担当する労働者の作業とは違います。街の掃除をする労働者は賃金にこだわります。一定の長さの道の清掃作業を請け負い、毎日定刻までに清掃作業を完了しなければならないということもあります。労働者が掃除をするのは賃金を得るためだけです。お寺の中でゴミなどを清掃するにあたっては、そのゴミは外在のゴミですが、もっとも大事なのは外在のゴミの清掃を通して内心のゴミ、内心における無明という垢を清掃することです。内心の無明という垢は、すなわち各種の煩悩、我愛執着であり、自己への貪着です。例えば、われわれはかなり主観的であり、世間の多くのことに戸惑ったり、それを恋しく思ったり、貪着したり、あるいは非常に興味を持ったりしているのです。これらはすべて執着の表れです。そこで、仏の教えを学ぶ私たちは、これらの執着や困惑を絶えず取り除かなければならないのです。なぜわれわれはこんな多くの苦痛を持っているのでしょうか。それはわれわれには多くの執着があり、その束縛から自らを解放することができないで、何かを求めるのはすべて世間の「我」と関係があるのです。


このような事や境地は皆世間法であり、生死輪廻の現象にすぎないのです。例えば、今世に人身を得たのは過去において人身を得るための業を造ったので、このような果報身を得たことになるわけです。この果報身を得て、人と呼ばれています。それでは、生涯にわたって、如何にすれば正しい人間になれるのでしょうか、どんな人間になるのがもっとも有意義で価値があるのでしょうか。どのようにすれば、もっとも有意義で価値のある人間になれるのでしょうか。そして、いつ、どんなときから、そういうことをやりはじめるべきでしょうか。これらは非常に大切なことです。大部分の人はどうしようもない状態にあり、他人が過ごしているように自分も過ごし、過去の人が過ごしていたように自分も過ごし、社会におけるいちばんお洒落な人が過ごしているように自分もそれを真似て過ごすわけです。しかし、仏の教えを学ぶ人間はそれと違って、もっとも成就のある人、功績のある人、そして智慧のある人を自分の手本や真似る対象とすべきです。言い換えれば、どんな人を自分の生涯の学ぶべき手本とし追随の目標とするのかは非常に大事なことです。

繰り返しになりますが、われわれはどんな人を自分の学ぶべき手本とし追随の目標とすべきなのでしょうか。これに答える前に、まずその前提として世間においてどんな人がもっとも重要であり、いちばん重要な人はどんな人なのかを認識し、理解すべきです。皆さんの生活はそれぞれ違いますので、答えもそれなりに違い、一千通りあるいは一万通りの答えがあるかもしれませんが、仏教徒にとってはもっとも重要な人が僧侶です。仏教徒になるのは仏の教えを学ぶためであり、成仏するためです。これこそがわれわれの目標です。僧侶は仏の教えに基づいて実践する人であり、生涯にわたり全身全霊をもって仏の教えの実践に当たります。そのゆえ、僧侶はわれわれにとっていちばん重要な人で、僧侶に帰依すべきです。帰依しないと、仏の教えを身に付けることは難しくなります。帰依したら、法師はわれわれにとっての貴い人となり、われわれにもっとも役立つ人となります。つまり、帰依してからは法師や教団を学ぶべき手本とし追随の目標とすべきです。法師の振る舞いを見て、われわれもそれに従って振る舞います。出家の法師の教え通りにすべきです。

仏の教えを学ぶにあたって、時々刻々仏の教えから離れてはいけないのです。つまり、いつも仏の教えをもって自分自身の内心を浄化し、仏の教えをもって身語意の造作を統率すべきです。心の中に仏の教えがあってはじめて、仏の教えを身に付けたと言えます。心の中に仏の教えがなく、日常生活のする事なす事すべてが仏の教えを体現できない、あるいは仏の教えと関係がないのは、仏の教えがまだ身に付いていないためです。これは非常に大事なことです。要するに、われわれはいまこのとき、何が本当の仏の教えであり、どのように学び、行持すると仏の教えをうまく身に付けることができることを理解できるように願って、そして実行すべきです。そうすると、日増しに仏の教えの勉強がよくできるようになり、日につれて進歩できて、自ずと今生にはすばらしい成就を得られ、進歩も非常に大きいものになります。そして、後生後世においては、もっと良くて殊勝な果報と暇満を得られます。もし今世の非常に得がたい人身をもって、依然として世間のことに夢中になり、輪廻に陥ってしまうなら、知らないうちにいろんな業を造ってしまって、絶えず苦しい目にあうに違いないのです。現在や今生においてつらい目にあわされるだけではなくて、未来や来生においても苦しみ続けるのです。以上のことを深く理解し、体験できれば、仏の教えは自分の人生から離れることがなくなります。

いわゆる仏の教えが自分の人生から離れないということはわれわれがすでに完全に仏の教えを受け入れ、仏の教えが完全に自分の心の中に溶け込んだということです。心の中に仏の教えがあり、心の中に仏の教えが働き続けることによって、われわれのする事なす事、一言一動はすべて仏の教えの体現となります。論語の中には「天何をか言わんや。四時行われ、百物生ず。天何をか言わんや」というふうに書いてあります。これはどういう意味でしょうか。つまり、天は何も言わないのですが、月日を重ねるうちに、春夏秋冬という四季の変化によって、万事万物は成長できるわけです。ところが、天は自分自身の貢献がどのように大きいか、自分自身の果たした役割がどのように大きいかはぜんぜん言っていないのです。天がなければ、人でも物でも草木でも存続できないのです。この世界は天の下にあり、天に包まれてあり、天の保護のもとに存在しているのです。仏の教えを学ぶのも同じようなことです。われわれのする事なす事には、どうしてこんな大きい力が働いており、どうしてわれわれはこんなに楽しいと思うのでしょうか。それは仏や菩薩からの利益を得たゆえです。仏や菩薩は天のような存在でありますが、われわれは業障が重いために見られないのです。しかし、その利益は感じられ、そして三宝の殊勝な功徳、お寺の清浄荘厳はわれわれにも感じられ、体得できるものです。われわれは心を込めて、それを理解し、体験すべきです。

孔子は「仁者は人を愛し、智者は人を知り」と語っていました。つまり、仁義のある人はみんなをいたわり、智慧のある人は他人を理解するのに長じています。自分の親戚や友達だけではなくて、すべての人をいたわり、すべての人を理解し、そして喜んで他人を理解するよう努力し、喜んで他人を助けるのです。他人のことを理解してからこそ、はじめて、他人には何が必要なのか、他人の問題、困難、煩悩が何かを分かってきて、そして他人を助けることができるのです。人を理解するのは非常に難しいことで、長い時間をかける必要があります。でも、われわれは日常生活の中でほかの人が自分のことを理解していないとかよく愚痴をこぼしますね。自分のやったことの多くはほかの人が知らないと思って、またほかの人に誤解されることを常に恐れています。一方で、われわれはいつもほかの人のことをよく知っているつもりで、その人柄や修学の程度などについてよく知っていると思い込んでしまうのです。実際には本当にそうなのでしょうか。われわれは本当にほかの人のことをよく知っているのでしょうか。もし本当に一人のことをよく知っていたら、問題は発生しないのです。では、何故こういうふうに言うのでしょうか。

人のことをよく知っていれば、いつ何を話してあげるのか、いつどのように助けてあげるのか、如何に相手によく仏の教えを学ばせたり、三宝を護持させたり、発心させたりすることができるかが分かるはずです。このホールを例として話しましょう。このホールをよく知っていれば、入るとき、香がどこに置いてあるのか、蝋燭はどこにあるか、電灯のスイッチ、ドア、窓などがどこにあるかがはっきり分かるはずです。そしてどこから入り、どこから出るべきかも分かりますので、ホールの中の秩序は維持できます。これはただ環境を知ることであり、物の効用や性能を知ることであり、人の理解、人の心の理解、人間性の理解、業果の理解を得るためには長い時間が必要です。また、われわれはそれほど大きい度量をもって他人を理解することができるのでしょうか。同じお寺に住んでいても、あるいは同じ勤め先に働いていても、数年たっても、相手の名前も知らないという可能性もあります。アパートに住んでいて、数十年たっても、上の階と下の階にどんな人が住んでいるかさえ分からないこともありうるのです。現在の人は、往々にして、ほかの人に知られたくない、ほかの人に知られることは望ましくないと思う傾向があります。それでは、どうすればよいのでしょうか。これはこの時代の特徴であり、あるいは問題であるとも言えます。

われわれが仏の教えを学んだとして、仏の教えの利益はどこから得られるのでしょうか。仏と菩薩から経験や加持を得られると同時に、衆生からも得られます。つまり、われわれは仏の教えをもって実践する過程の中に、多くの人がわれわれの発心、努力、造った業によって、仏の教えの利益を得られます。これらの衆生はまさに仏の教えを広めるときの対象であり、発心の対象であり、益する対象でもあります。つまり衆生を益することですね。これらの衆生、これらの苦難にある衆生がいなければ、われわれには菩薩の道を行くことが困難になり、容易にできないのです。すなわち、比較的問題のある人、困難のある人、煩悩の多い人、苦痛の多い人こそ、発心して益する対象であり、菩薩の道を行くときの対象であり、目下努力して助けてあげるべき対象であります。そんなときは、われわれにとっての第一時間であり、もっとも重要な時点であり、もっともいいチャンスでもあります。


他人を助けたり、他人を益するときに、「いい人にはいい報いがない」と、よく耳にしますね。どうしていい人にはいい報いがないのでしょうか。いいことをして、どうしていい報いがないのでしょうか。原因は他人を助けるときは、他人がそれを受け入れていないで、ありがたいとは思わないで、あなたの言うことを聞かないことにあります。では、われわれはどうすればよいのでしょうか。原因はどっちのほうにあるのでしょうか。他人を助けるとき、あんまり効果がなくて、最初の目的を達成できないことの原因は相手にあるのでしょうか。私から見れば、これはわれわれが発心して反省すべきことです。実際の原因は、われわれの慈悲が足りなく、智恵が足りなく、善巧も足りないことにあり、一言で言えばわれわれの能力がまだまだ足りなくて、衆生を益する心がまだ足りないのです。それ故、根本から他人を助けることができないのです。例えば、ある人が病気にかかりました。すごく重い病気です。この場合に、お医者さんの医術が足りなかったり、薬の質がよくなかったりすると、重病を治して健康を回復させることはほとんど不可能です。

われわれは日常生活の中で、よくこのようなことに遭遇します。仏の教えを学んだからといって、出会う人のすべてがいい人であり、あるいは自分の目にはよく映り、自分と馬が合う人ばかりだとは言えないのです。仏の教えを学ぶ過程においても、依然として多くの予想もできないことや人に遭遇し、自分でも思いもつかない多くの困難や問題に出会う可能性もあります。そのため、煩悩を認識し、煩悩を退治するという能力を絶えず育成する必要があります。人に煩悩が生じた時、顕在の煩悩の場合は容易に気づくことができます。例えば、人を罵ったり、殴ったり、かんしゃくを起こしたりすることはわれわれが比較的簡単に伺察することができます。煩悩が非常に微細な時は、われわれには見つけられなくて、伺察できないのです。実際には、それでも煩悩そのものです。一つ例を挙げますと、お寺の中ではある方面のことだけをする場合がありますね。あるいはある方面のことだけが好きですが、法師にほかのことをしなさいと言われると、不愉快になり、ひいては愚痴をこぼすこともありますね。つまり、他人に言われて自分の好きではないことをしなければならないということはよくありますね。実際にはこれこそがわれわれがはっきり認識すべき問題なのです。

社会や家の中で、このような癖がひどいものであったら、自分の好きではないことはけっしてしないでしょう。お寺の中だと違ってきます。自分の好きではないことをするかどうか、これはまさに自分の癖に直面し、はっきり認識するいいチャンスです。自分の癖のままですると、このような癖はますますひどくなる一方です。このような癖に従わないで、つまりこのような癖を直すことは非常に苦しいことであり、簡単にできることではないのです。しかし、癖を直すこと自体は、われわれのもう一面の能力を増長させるチャンスでもあります。こういうふうに認識できれば、違う発心にもなります。ところが、われわれはよく他人が自分のことを理解していない、他人の手配していることが合理的でない、他人が自分にやらせることは如理でない、法にも従っていないと思いますね。これらのすべてのことは、お寺に来て心を込めて、いったい何が如理であるかを体得しなければならないのです。

如理というのは、自分の行為が自分なりに理解しているように仏の教えが道理に適うことではありません。如理とは、仏の語った道理に適うことです。われわれが体得しているような仏の教えの道理は非常に浅いものです。ほかの人や法師たちがわれわれに教えてくれる道理やわれわれのために決めてくれることがあまり円満ではないという可能性もありますが、自分自身の理解しているような道理よりは正確であるかどうか、深いかどうかこそが非常に大事です。全体的に言えば、法師の理解がわれわれより正確であるということを信じれば、それに従って実践するのが間違いがないのです。根本的に言っても、われわれより的確に理解していれば、それによってやっていくのが間違いがないのです。そうじゃないと、仏の教えを学ぶことはひょっとすると、かえって迷惑になってしまう可能性もあります。どうしてこういうふうに言うのでしょうか。それは、つまり、そうじゃないとわれわれが仏の教えの中の用語や道理で自分を装う可能性が非常に高いのです。具体的に言いますと、あることに遭遇したとき、多くの道理を言えますが、それが実際の心の中の状態や境地とはぜんぜん違うのです。

道理を言うことが好きな人には、よくこのようなことがあります。つまり、心の境地に力を入れて、このような窮地を突破できるよう努力しないで、何かに遭遇したときは、別の道理をもって自分のために説明したり解釈したりするのです。これは仏の教えを学ぶ正確な態度ではありません。これはきわめて細かいところです。仏の教えを学ぶとき、良い師友が必要なのはそのゆえです。平日の暇なとき、経·論を読んだり、議論したり、自分の感じたことを話したりすることは勿論いいことですが、せいぜい座ったまま道理を論じるにすぎないのです。実際に実践していくことは、また別のことになります。

仏の教えを本当の意味で実践し、仏の教えを実際の行動に移し、そして長い時間をかけて絶え間なく実践していって、継続的に有情を益するためには、本当の能力が必要です。それがないとできないのです。継続的に有情を益することは別として、あることをやり終わると疲れてしまって、次回にはまたするかどうかさえ考えてしまいますね。一回か二回、法事や仏の教えについての講義に参加すると、その後は最初と同じような意欲があるかどうか、喜んで参加しようという気持ちがあるかどうかは断言できないでしょう。仏の教えを学び始めたばかりのときは、物珍しく思って、お寺の環境も物珍しくて、お寺の法師や同行道友とはお互いによく知らないので新しい友達として礼儀正しく応対するかもしれませんが、時間がたつにつれて、お互いを知るようになり、心の中はまた別の状態になり、つまりどうでもいいという気持ちがまた出てしまうのです。要するに、仏の教えを学ぶ前や帰依する前の状態に戻ってきて、これらの人も大したことがない、お寺の中で何かをやることと家の中でやることは大きな違いがない、ひいては家の中のほうがましだといった考え方がまた出てしまうのです。

以上のことはすべて今生にはどんな人がわれわれにとっていちばん重要なのか、どんなことがわれわれにとっていちばん重要なのか、当下には何をすべきかといったことを本当の意味で認識していないためです。当面には何をすればいいのか分からなくて、当面において実際に何かをやらないと、当面を無駄にするんじゃないでしょうか。すべての当面を無駄に過ごすと、毎日を無駄に過ごすことになるに違いないのです。仏の教えを学ぶ人間は、われわれが何をすべきか、だれと一緒に何をするか、そしてどのようにするかについては、はっきり分かるべきです。心の中は非常に落ち着いていて、なにが正しい見解か、何が正しい考え方かをはっきり認識すべきです。はっきり認識できるようになって、それに従って考えたり、行動したり、そしてよくできるようになることは非常に肝心なことです。


仏の教えを何年間も学んできましても、自分では何をしたいかがはっきり分かっているとは限らないのです。何年間学んだということはただの時間のことであり、何年間学んだから成績が必ずいいとは言えないのです。それは別々のことです。つまり、七十歳か八十歳まで生きたから智慧があるとは限らないのです。勿論、いろいろそれなりの経験や体験もありますが、その自分の持っている経験をほかの人と比べてみれば、特に大きい成就のある、大きい智慧のある人、あるいは仏や菩薩、祖師大徳の経験と比べてみれば、それが比べ物にならないに違いないのです。そもそも同じレベルの者ではないから、比べることはできないのです。学ぶなら地道に、着実に学ぶべきです。そうすることによってわれわれは成長できるのです。また、比べること自体は間違っているのです。例えば、地面の泥はどうやって黄金と比べられますか。材料が違いますから。それは絶対違うものなのです。われわれのような凡夫にとっては、自分自身の本当の問題がどこにあるか、どのように勉強すべきか、どのように発心すべきか、如何に意欲を引き出すかをはっきり認識しなければならないのです。これは非常に大事なことなのです。

縁起論は仏教の根本となるものです。縁起論の特徴はなんでしょうか。つまり、和であること、協調していることです。具体的に言いますと、人と人との協調であり、事と事との協調であり、物と物との強調であり、これはすべての基準となります。例えば、仏堂の中の仏像、供え物を置く机、座布団などをどのように置くのがいちばんぴったりしているのでしょうか。それは物と物との協調です。それに、人と物との協調も必要です。人が列を作る時には、前後左右を整えて、一列一列にきちんと並ぶべきですね。このように、何事においても協調を重視しなければならないのです。師を招き、賛歌を合唱し、聖者を招き、懺悔することなどにおいても、協調を重視すべきです。仏堂の中では、念仏したり、法を聞き思ったり、礼拝したり、仏法の話しをしたりするんですね。このようにすれば、われわれのすることは仏堂という場所にふさわしくなるのです。もし仏堂の中でおしゃべりをしたり、電話をしたりすると、それは協調できなくなりますね。

それでは、縁起論の中の協調を如何に体得すべきでしょうか。どのようにして協調を体得できるのでしょうか。何が縁起だと言えるのでしょうか。縁起論とはいったい何でしょうか。どのように体得できるのでしょうか。皆さんもご存知のように、人間には感じや感受がありますね。人間の感じには三つあります。一つは苦しい感じであり、つまりわれわれがよく言う苦苦であります。一つは楽しい感じであり、つまりわれわれがよく言う壊苦のことであります。楽しい感じはいずれも過ぎ去るものになります。もう一つは苦しくなく、楽しくもない感じであり、いわゆる捨受であり、行苦とも呼ばれています。世の中の全ての感じや苦痛はこの三つの苦にすぎないのです。苦受、楽受、捨受といった苦楽捨の三受は皆苦痛であり、すべての感受が苦であり、その本質が苦なのです。

諸受皆苦、つまりすべての感受が苦であります。これは縁起論とどんな関係があるのでしょうか。つまり、どんな行為が諸受皆苦を引き起こすのでしょうか、どんな行為やどんな行為の協調がこれらの苦を取り除いて、快楽になれるのでしょうか。以上述べたことは二つの異なることであり、二つの縁起、つまり清浄の縁起と染汚の縁起であります。仏の教えを学ぶのは染汚の縁起を清浄の縁起に変えるためです。染汚の縁起と清浄の縁起の鍵となるところはどこにあるのかと言いますと、それは人の発心にあり、心理状態にあり、人の心の中の仏の教えの成就にあります。つまり、こういうふうに比較判断し、考えるべきです。例えば、心理的に健全な人と心理的に問題を抱えている人は違うタイプの人です。心理的に健全な人は物事に対する見方は非常に楽観的で、心理的に問題のある人はその見方は非常に悲観的で、消極的です。認識が違うわけです。心理的に問題があると、自然に認知の結果もマイナスのものになり、心理的に健全であれば、外部の物事に対する認識が楽観的で、プラスのものになります。

仏の教えの角度から言えば、心理的に健全であれ不健全であれ、それはみんな世間法であり、世間善法であります。世間善法でも輪廻を招き、われわれに解脱させることができないのです。世間善法を出世間善法や無漏善法に変えることこそ、希望を持てるようになり、殊勝で優れているもので、われわれには必要なのです。世間善法を無漏善法に変えるためには、修行をして、煩悩を退治、調伏しなければならないのです。煩悩の心をもって物事を行うと、それは世間善法になります。仏教徒だからといって、われわれのやったことが仏の教えと合っているとは言えないのです。そのようなことではないのです。自分のする事なす事といった善法が成仏するための資糧であり、菩提の道における蓄積であり、資糧の集積であるということを認識してからこそ、はじめて、われわれのする事なす事は意味を持つことになります。すなわち、われわれは何をしても、自分自身の人生の方向、人生の落ち着き先、人生の目標、究極の信仰と結びつけなければならないのです。これを忘れると、自然に意欲がなくなり、方向にも問題が生じることになります。

今日は仏の教えを思い出したので今日のすることは仏の教えと合っている、だからといって明日や明後日のすることも仏の教えと一致するとは限らないのです。今日、仏の教えを思い出して、仏の教えは心の中にあり、それは非常に正しくて、すばらしいことです。ところが、仏堂やお寺の門を出て、家や勤め先に帰ったら、仏の教えを忘れてしまって、人と接するときも仕事をするときも以前のような心理状態に戻って、仏の教えをお寺の中に置いてしまうことになります。われわれは長い時間をかけて薫陶し、そして常に自分がこういうことをする目的を念頭におく必要があります。お寺の中で何かをする前に前行をするのは、皆さんにこのことの目的や何のためにお寺に来たのかを思い出させて、そしてわれわれがこういうふうにするのは成仏するための資糧を積むためだと、時々刻々思い起させて、忘れないようにするためです。

帰依に来て、心のよりどころを探しに来て、われわれを助けてくれる人を探しに来て、人生の方向と落ち着き先を探しに来るわけです。ですから、帰依の法事や帰依の意味を普通のことと同じように考えてはいけないのです。今日の話は初心者にとっては難しいかもしれませんが、努力すれば理解できることです。では、どうすればよいのでしょうか。どのようにして今日の話しの内容をより深く理解することができるのでしょうか。皆さんは帰依してからは、一心に修行して、今日話した仏の教えの意味を深く考えるべきです。それと同時に、この前の講義の内容と結びつけて考える必要もあります。今日の話は前回の話しに基づいてしたので、講義はだんだん難しくなるわけです。前回の講義の内容をよく理解できないと、今日の内容もよく理解できないと思います。仏の教えを学ぶには、もっとも肝心なのは聞いてからそれを受け入れられるかどうかということ、そして受け入れてからは実践できるかどうかということです。本当に受け入れて、それに実践していくことこそ、有益なのです。ですから、皆さんは聞いてからはこのように発心して、真面目に仏の教えの実践に当たるべきです。このようにして、仏の教えの真の利益を得られるのです。

これをもって皆様を祝福します。

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