環境保全に関する仏教の理念と思想

中国仏教協会国際部次長 普正

はじめに

人類は大自然へ鉱物を採掘し宝物をとり、且つ物豊かな生活を楽しむと同時に、勿論大自然にもいろいろな破壊をもたらしている。例えば、地球温暖化、環境汚染、災害頻発、砂漠拡大化、飲用水不足、動植物の種類の急減等。これらの現象の発生は、直接に人類の正常な生活と大自然の調和を脅かしている。世界各国で環境にやさしいという呼びかけがあちこちから湧き上がり、環境保全に関する世界的な会議も途切れたことがない。しかし、大気汚染は依然として深刻で、排気ガスの排出量も減少するどころかかえって増えつつある。私たちは食事する時に、グリーンフードであるかどうか、水を飲む時に水質が汚されているかどうか、呼吸する時に汚染されている粒子を吸い入れているかどうかと、常に心配している。この心配はすでに私たちの日常生活の隅ずみまで影響している。これらの問題が発生したのは、いろいろな複雑な原因があるが、基本的な原因は、人類が悪意的に自然を破壊したことにより、その悪因悪果をかもさせられたわけ、仏教の立場から言うと、仏教の教えを知らずに、因果を信じなく、自分が生きているこの世間を大切にしないことである。仏教の経典には、「世間」を「有情世間(すなわち衆生世間)」と「器世間」という二種類に分け、山·川·大地·草·木·お城等衆生が住んだり、暮らしたりしているこの国土世界を器世間と呼び、生命がある動物類を有情世間と呼ぶ。器世間は、有情世間が頼った環境である。仏法を実践する中で、仏教徒がすべての生命を尊重し、あらゆる生命に皆仏性があり、皆成仏できると一貫して教えられている。そのため、不殺生を仏教徒が共に守る戒律とする。器世間の面において、「有情無情に皆仏性がある」との説がある。これは、即ち、仏教は心の浄化を大切にするだけでなく、また自然保護に関心を寄せる環境保全の理念でもある。したがって、仏教徒は、寺院境内の花草樹木を美しく栽培するだけでなく、寺周辺の環境をもきれいに飾っている。水や電気の節約、ゴミの低減などの面においても、身をもって実行している。仏陀の教えを自覚的に実践して、それを環境保全·人心の浄化事業に生かすことにより、国土を荘厳し有情を利楽させる目的に達する。

私たちは仏教徒として、深刻化する環境問題に直面している時、どのような役割を果たすべきか、どのような責任と義務を背負っているかについて、参考のため次の三点から述べていきたいと思う。

1、慈悲観を修め殺しを戒め生き物を守ろう

仏教は非常に戒律を重視する宗教である。戒律の目的と役割は非を防ぎ、悪を止め、心性を慎み、慈悲心を養うことにある。仏教徒たちには、それぞれ異なった戒律があるが、その中の不殺生戒はあらゆる仏教徒が共通に守らなければならない戒律である。厳密に言えば、仏教の戒律は身体で犯さないだけでなく、内心も清浄で乱れないと求める。よって、不殺生戒はあらゆる仏教戒律の中において、筆頭格の大戒とされている。仏教は不殺生を主張すると同時に、放生と生き物守りという功徳を提唱する。『仏本生事跡』の中に、仏陀が生命を捨て虎の餌にするという物語が記載されてある。また、『阿含経』の中には、次のような物語が載せてある。すなわち、ある比丘は林の中を経過しているところ、歩く時土地を痛めること·話す時に草木を目覚めること·痰を吐くとき山林を汚すことなどを心配したことである。これらの物語は、客観的に人々が生態や環境保護するために積極的な役割を果たしたと言えよう。その他、仏教徒が植林活動や環境美化などのような優れた伝統を持つことは、恰も「世上の好き語は仏より言い尽くされ、天下の名山の多くは僧より建てられる」という古人の対聯のように、仏教が人類の心の浄化及び生態·自然環境保護のために特別な役割を果たしていることをいきいきと現すのであろう。

仏教は殺生を禁じ戒めているのみならず、更に放生と生き物守りを積極的に提唱している。この理念は、仏陀は鹿野苑で成道されるとき、一切の衆生が如来の知恵を皆持っているが、ただ無明な煩悩で覚悟ができないと見透かされるからである。その後、仏陀は説法された時、「心仏衆生、三無差別」を強調される。これは、仏教が慈悲を以って人とつきあい、平等に物を扱う精神であり、不殺生を主張する原因でもある。『梵網経』菩薩戒に曰く、「若し仏子は慈悲を以つが故に、放生の業を行えば、まさにこれ念をなすべし。一切の男子はこれわが父、一切の女人はこれわが母、私生生に、これに従って受生ざるはなし。故に六道の衆生は皆これわが父母なり。しかるに殺し、しかも食せば、即ちわが父母を殺し、わが故身を殺すなり」。これこそ、仏教の「無縁大慈、同体大悲」精神であろう。すなわち、仏陀がすべての衆生を守り、殺さないと説かれるようにすれば、人と動物が仲良く付き合えるのみならず大自然とも調和の取れたメリットがある。逆に、今世にあなたがわたしを殺し来世になるとわたしがあなたを殺すように、不断な恨みで復讐し合い、戦争までも起こす可能性がある。虐殺のような劣行にしても、恨みで「業」を醸すというような悪習にしても、自らの心にある貪·嗔·痴という三毒によらないものはない。起こされたこの三毒の目的は、自らの欲望を満たすことにある。そのために、自分の貪婪と欲望さえ抑えることは、快楽を得る源となるのであろう。仏教における不殺生主張は、ある意味から言うと、調和を唱え、力を入れて慈悲を行うことである。したがって、少欲知足·慈悲平等·不殺生により、自分の心を清めさせることができるし、大自然の一切の生命体を調和·受容させられる。その上、仏法の習得を通して解脱もできる。

2、感謝の気持ちで福と自然資源を大切にしよう

日常生活にいて、他人から助けてもらうと、感激の気持ちで助けてくれた人に感謝するに違いない。しかし、毎日大自然からの無尽な恵みを頂いているのに、かえってそれは当然のことだと思い、感謝の気持ちを全然持たない。例えば、ある日太陽が再び昇らなければ、地球は真っ暗くなる。水不足で川が涸れれば、地球村は廃墟になってしまう。空気が希薄して酸素が足りなくなると、人は窒息状態に入ってしまう。したがって、「滴水の恩に、当に湧泉を以て報いるべし」という古い言葉のように、私たちの生命が皆母親とした大自然の賜ものである以上、自然を楽しむと共に自然を保護し、自然からの恩恵に感謝しなければならないのであろう。

人と自然界とは、切っても切らないという密接な関係にある。中国の伝統的文化の一つである儒教が「天人合一」理念を主張している。仏教には「依正不二」思想がある。いわゆる「依正」とは、即ち依報と正報を指し、衆生の心身を正報と言い、人類が生きている世界を依報と呼んでいる。正報と依報が相即不離の関係にあり、依報を壊されると、正報が生存していくわけには行かない。世界が縁起によってのものであり、経典における「此れが有るが故に彼が有り、此れが生ずるが故に彼が生じ、此れが無いが故に彼が無く、此れが滅するがゆえに彼が滅する」ように、その存在と崩壊が諸々の条件と因縁により決まる。だから、人と人・人と自然および自然と自然との関係は、それぞれ相互に影響しあうものである。即ち木のように一つが茂ると皆茂り、或いは一つが損すると損をともに蒙ることになる。大自然を破壊したり、或いは大自然と対立したりすると、疑いなく人類が自ら滅亡を招くことになる。仏教は生態環境への保護分野において、悠久な歴史を持っている。特に「郁々とした黄花が般若ならざるはなく、青々とした翠竹がこれすべて法身のみ」という禅宗の言葉のように、大自然を般若の本体および法身の表れとみなし、いつも無常の真諦を物語っているのであろう。数多くの名山古刹の美しい環境自体は、中国歴代の仏教徒が力を注いで自然生態をきちんと保護してきた好例ではなかろうか。

生活の面において、仏教徒は更に資源の利用と節約を重んじている。生活が簡潔質素で倹約であることや菜食堅持および福を惜しむ等数多くの面に現れている。これは、仏教徒が一貫して主張する生活理念であり、中華民族の伝統的美徳でもある。この点において、ほとんどの寺院と信者が勤勉で節約した人々の模範となったと言えよう。とりわけ、寺院で「過堂」即ち食事するには、精進料理の堅持のみならず、あらゆる食べ物を無駄にしてはならなく、食後に鉢などの食器を洗い残した水さえも飲むと求められている。もしも、誰でもそのとおり用水を節約するのならば、地球上の水資源が今日のように乏しくないのであろう。自然資源の保護についての課題は今日のように極めて困難で緊迫してくれないのであろう。従がって、僧侶の暮し方そのものは、感謝の気持ちで福福と自然資源を大切に、環境を保護し、心を清める教室であろう。

3、浄化した心で調和世界を構築しよう

人類の外在行為のアンバランスは主に心の不浄なことにあり、いわゆるあらゆる諸法がただ心を以てあらわすところにある。これも仏教における心の浄化を提唱する重要な理念である。即ち、清浄で荘厳した環境を実現するには、その根本が人の心を浄化することにある。衆生たちの自らの心を清浄させてはじめて、仏土を清浄させることができる。従がって、生態環境のアンバランス、大気汚染、各種資源の破壊、動植物の絶滅等は、あくまで人類の欲望と人心の極端な貪婪によったものである。『仏遺教経』に「心を一処に制すれば、事として弁ぜざるはなし」と説いてある。私たち仏教徒の修行生活において、最も重要なのは自らの貪欲・虚妄・執着でなかなか落ち着かない気持ちを調整することにある。若し内心の貪婪と欲望を無くすのなら、非理性的な物欲への追求をやめ人類が環境への破壊を低減することができる。人の欲望に限りが無いものであるが、地球の資源が有限である。私たち人類と大自然が地球で仲良く生存するには、貪婪と欲望を抑制し、心と思想を浄化させ、慈悲·平等·無我の精神と「無縁大慈·同体大悲」思想を以って自分の悪習を変え、内心を清らかにしなければならない。そうすれば、人類の生存した環境をきれいに守ることができる。

環境保護の問題について、心を浄化させなければ、本当の理想的な環境保護を実現することは、まるで砂でご飯にするように不可能である。「心は衆聖の源であり、亦万悪の主でもある」という神秀禅師の禅話のように、善悪やいいか悪いかが皆心によったものから、心を修めることが大変重要なのは分かる。仏教における人間浄土の建設は心から始まったものであり、調和の取れた世界の実現も心からのものでもある。と言うのは、内心の清浄こそ、最もいい環境保護だからである。『維摩経』に曰く、「若し浄土を得んと欲せば、当にその心を浄むべし。その心の浄きに随わば、即ち仏土が浄し」。しかし無始以来、私たちの心の中には、より多くの貪欲·嗔·愚痴·嫉妬·邪見など無明な煩悩から満たされるため、心を汚され、心性をだまされてくる。したがって、身心どもの清浄を実現するには、心の中にある無明な煩悩を取り除き、善法を習得し、心を浄化させなければならない。それが可能であれば心の清浄もできる。心身こそ共に清浄させれば、私たち依頼・生存したこの大自然を破壊されことなく、環境保護という人類の理想も実現できるはずであろう。

むすびに

人類の環境保護問題が日増しに重要となるこの現代社会においては、世界各国の有識者同士は口をそろえて、人類の生存した環境をきれいに復帰しようと呼びかけている。私たち中国、韓国、日本三国の仏教徒は、それぞれ異なった形で積極的に環境保護運動の行列にすでに入り、また重要な役割を果たし、深い影響を及ぼしている。環境保護の問題において、仏教界の対応と足取りは最も早く、成果も顕著である。しかし、当面最も重要なのは、いかにして人類社会を感化·指導し、ともに協力し合い、慈悲·平等·無我という仏教精神と「無縁大慈、同体大悲」思想を生かし、大自然を愛し、環境を保護し、資源を節約することにある。環境保護が私たち自身を保護すると同であるという認識を持たせ、心の浄化からスタートし、人類環境保護の理想を真に実現するよう努力していこう。

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