仏教徒の歩み

日本 妙心寺霊雲院 則竹秀南

現代世界の人類の状況、社会状況を見るにつけて、科学の発達により人類の生活向上、福祉向上等、目をみはるものがある。人類の科学的知識はまだまだ将来、計り知れないものがある。科学の発達、進化により生活は豊かに、便利に、スピード化がなされ、人類は自己向上のために使う時間、教養を自由に使い得てゆとりある生活が出来るようになった。

しかし、いくら物質的に豊かになり、財を積み重ね、ゆとりある日々を過ごし得るも、現代人にとって心の安らぎはえられたであろうか。甚だ疑問なのである。

現に日本の現在の状況は世界でも指折りの経済成長をなし遂げて、金を出せばなんでも手に入る程、豊かにして快適な生活が出来、福祉の向上も進んでいるが、人々の心の悩みはつきないのである。

新聞紙上をにぎわす事件、つまり殺人、誘拐、窃盗、詐欺、横領、自殺と次から次へと事件は起こっている。家庭崩壊、人心不信、社会不安等、問題を抱えながら解決の道すら見出せないのが現実である。たとえ見出してもそれは一時的なもので、政治経済倫理道徳の範疇では到底解決できない。

ではどうしたら解決できるのか。

それは宗教、特に仏教に於いて解決できるのである。

云うまでもなく釈尊の教えは因縁の法の徹見よる、自己の研鑽、八正道の実践によって和合の世界の実現、仏国土の成就である。

因縁の法とは諸行無常であり、すべてのものは移ろいゆくこの道理を正しく理解し、その道理の中で私達が如何に生きるかが問題である。

しかし乍ら私達はこの諸行無常ということを理解はするが、本当に自分を無にしてこの道理の中で生きているであろうか。ついついこの道理に背いているのである。道理に背く故に苦しみが生ずるのである。

大自然の中に自己を没入すること、自分は大自然の中の一つの生命体である自覚が大切なのである。

諸行無常なるが故に諸法無我である。一つ一つのもの、そのものの実体はないのである。しかし私達つい自我を認めて了うのである。西洋哲学は「我思うが故に我あり」で自我を主張するが、東洋つまり仏法は無我なのである。

この無我に徹しきったところからの行が実は広大無辺なのである、天地宇宙となって行くのである。ここを天地我一体、万物我と同根と云い、禅の極地、仏法の真髄なのである。ここに大自然との共生が人類と和合が可能である。ここに仏教の結束と協力を見出すことが出来、仏教徒の歩みがある。

去る二月十八日は広州光孝寺住持、明生法師の晋山式であった。私は尊敬する明生法師よりのご招待で晋山式に随喜することが出来た。中国の法師の晋山式の招待は初めてであり、大変期待して当日の来るのを待っていた。当日は斉国家宗教局副局長、中国仏教協会一誠会長をはじめ聖輝副会長等、中国の     重役の方々の参列の中、法堂で伝統の下での式であった。

云うまでもなく光孝寺は中国禅宗の第六祖、慧能禅師ゆかりの寺である。

明生法師とは以前から同じ六祖の児孫として互いに友好を保ち、互いに研鑽をして行こうと話していた。私はどの様な式次で晋山式が進められるか、胸が躍る気持ちで法堂で待っていた。残念なことに中国語が分からないこともあったが、先ず最初に聖輝法師と明生法師との問答があり、多分日本の山門に於ける問答であろうと想像した。法堂に入堂してからの式次は晋山の偈及び説法、上堂に至るまで、日本妙心寺の方式とあまり変わりなく、流れをくみ取ることが出来た。これも考えてみればごく当たり前のことであり、私達が百丈清規より伝わる中国伝統儀式にあくまでも則っているのである。

この様に儀式と宗旨とは、同じ達磨大師、慧能禅師、百丈禅師、臨済禅師の流れの中にあることを確認したのである。ここに仏教の共通性と、そして仏教の結束と協力を見出すことが出来るのである。

現代の私達はこの禅師方の護法の精神を大切に更に未来に向けて伝えて行くつとめがある。それはあたかもスポーツのリレー競争の如くであり、先人から伝わったバトンを握って精一杯走り、そのバトンを次の走者へと渡さなければならない。

そのバトンは全ての走者において共通するものであり、これが法、ダルマなのである。私達仏教徒はこの法を深く究め、法に則った日常行持をつとめて行くことが第一の任務である。一人一人が脚下を照顧し、自己をよく見つめる、そこに霊性の自覚があり、ここから一人一人の歩み進みがある。そしてその一人一人の歩みとは云うまでもなく六波羅密の実践である。

一、布施

ほどこしである。これには財施と法施とある。

無我の境地になれば、自ら他人へのほどこしが湧き出るのである。人々の喜びを自分の喜びとす一体感から、財を喜んでほどこせる、つまり喜捨である。財を持っていない人は財がなくてもほどこせるものとして、無財の七施がある。

これに対し出家は法を施すのであり、特にこの点については出家はよく理解しておかなければならない。出家の使命は法を施すところにあるとの認識を強く持つことが大切である。

二、持戒 

イ、不殺生戒

自分と同様に尊いいのちを頂いている他のいきもののいのちは、自ら絶つことは出来ません

ロ、不偸盗戒

自分と同様に各々所有したものを勝手に奪うことは出来ません。

ハ、不邪淫戒

自分と同様に他に不快感を与える様な、淫らな行為は出来ません。

ニ、不盲語戒

自分と同様に互いに信じあう仲に於いて、うそを云ことは出来ません。

ホ、不飲酒戒

自分と同様に酒に酔って自己を見失い、他人に迷惑をかけることは出来ません。 と云う五戒は自ら持てるのである。

三、忍辱

たえしのぶことである。無我なるが故にこれが可能であり、祖師方の行履の根本はここにある。法を施すに当たってはただただ耐えることである。つい世俗にあわせてこの精神を忘れてしまう。自我の主張の世俗社会に口車をあわせて了うのである。

四、精進

ただひたすら、額に汗して仏道を歩むことに精を出すのである。

五、禅定

仏法の原点は釈尊の成道である。その成道に至るには、禅定は欠かせないものである。禅定なき仏法は仏法にあらずである。

六、智慧

仏の智慧による適格な判断と生活。人類にとって欠かせないものである。

この八正道の歩み、これを人類一人一人自己に正直に絶えず行じて行くことが仏道精進であり、仏教徒のつとめでもあり、仏の意に背かない日常生活である。この原点に返って一人一人がつとめて行くならば、冒頭に述べた如く現代社会に於ける諸々の事件は起きないし、人類間の争いも生じないのである。自ら平和となるのである。

よく平和のために、平和をかちとろうとか云われるが、求めて得た平和は苦しみのもとなのである。

何故ならば、釈尊は「求むるは皆苦なり」と喝破されている。平和は求めるものではないのである。私達が着実に脚下を照顧して仏道を歩んでおれば自ら向こうからやって来るのである。

宗祖臨済禅師は「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る」と臨済録で説いているのである。幸せは平和は求めなくても、幸せは平和は自らやって来ると。この真意の重さを私達仏教徒はよくかみしめる必要がある。

仏教徒の根本精神はここにある。仏道をただ綿密にこつこつと歩み行じて行くところに真の幸せ平和は自らやってくるのである。いくら美しい言葉で平和を論じ、救済を説いても、無我の精神に基づく仏道精進のないところには幸せと平和はやって来ないのである。

政治上、経済上、倫理道徳上に於いて、人々の豊かさ幸せがあってもそれは一時的である。釈尊は更に「足ることを知る」尊さを説かれた。

ところが足ることを知ることを見失った現代人、只欲望追及のみに必死となった現代人には、心の安らぎはない。争いがあるのみである。

科学は高度な文明文化の追求のみに終始して、結果社会は乱れ、争いは大きく、死者は多く、人類滅亡は間近に感じられる。人類の傲慢さ、自然との調和に欠いた欠点を露出している。今あること、諸行無常の道理の上にある、自分の脚下に、足ることを見出さない限り争いはさけられないし、真の心の安らぎはやって来ないのである。一歩一歩仏道を精進して歩むことが、仏教徒のつとめであり、仏教の結束と協力であり、平和への自らの道なのである。

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