日本との交流史
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日中両国で鑑真和上円寂の記念行事を行う
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中日仏教交流の架け橋-空海和尚
日中両国で鑑真和上円寂の記念行事を行う
一九六三年(昭和三十八年)は、鑑真和上が、奈良唐招提寺で遷化されてから、ちょうど千二百年目に当たる。これを記念して、日本と中国では、記念大法要をはじめ数々の催しが行われた。
鑑真和上は、興福寺の僧栄叡、普照の熱心な要請にこたえて、日本への正律弘通のため渡日を決意やし、暴風雨などにより渡航に失敗すること五度、十二年の歳月を費やし、六度目の渡航に成功し、来日した。その不屈の意志と仏教への熱烈な信心は、日本仏教界に大きな影響を与えたばかりでなく、日中仏教交流の先駆者として、両国で、ひとしく尊敬、評価されていることは周知の通りである。
宗派を超えて遺徳顕彰
日本仏教界では、宗派を超えて、鑑真和上の遺徳を顕彰し、記念行事を行うため、四月二十三日午後一時、東京九段・全国都市会館で、「鑑真和上遺徳奉讃会」の結成式が行われた。この奉讃会は狭川明俊、椎尾弁匡、橋本凝胤、高階瓏仙、半田孝海、清水谷恭順、藤井日達師らが発起人となって準備を進めていたもので、当日は、奉讃会会長に高階瓏仙師(曹洞宗管長)を選任、事業計画を審議した。その結果、記念講演会の開催(亀井勝一郎、井上靖、安藤更生の各氏に講師を委嘱)、記念大法要(東大寺、唐招提寺、総持寺)、中国仏教代表団の招請、鑑真和上展の開催などを、年間を通して、行うことになった。
一方、文化、芸術界では、すでに、日中文化交流協会(中島健蔵会長)が、ぶんか、芸術界に呼びかけ「鑑真和上円寂千二百年記念会」が発足、代表世話人に亀井勝一郎氏(日中文化交流協会専務理事)が選ばれ、一年間、各種記念行事を催すことになった。
東大寺で盛大記念大法要
記念行事の手始めとして、鑑真和上が、天平宝字七年(七六三年)に入寂された祥月命日に当たる五月六日、東大寺で「鑑真和上円寂千二百年遺徳奉讃大法要」が盛大に執り行われた。
この日、大仏殿中央に設けられた式壇には数々の供物や盛花が飾られ、和上を偲ぶ心尽くしにあふれていた。式壇を囲み、橋本凝胤(薬師寺)、松本実道(西大寺)、森本孝順(唐招提寺)、田川乗俊(興福寺)、大西良慶(清水寺)、印真周湛(天台宗)、古川大航(臨済宗妙心寺派)、岸信宏(浄土宗)、大谷瑩潤(真宗大谷派)など各宗の代表者、文化界から「鑑真和上円寂千二百年記念会」代表、一般信徒など三百余人で埋められた。午前十時半、東大寺一山の式衆が大仏殿に入堂、導師をつとめる狭川明俊華厳宗管長が式壇に進み、表白文を奏上、和上が失明にめげず、幾多の障害を乗り越えて来日し、東大寺に戒壇院を建立して授戒の作法を行い、さらに唐招提寺を建立するなど正律弘通に生涯を捧げた偉業を讃える。
次いで、大西良慶清水寺貫主と文化界代表安藤更生氏から、それぞれ、和上を偲ぶ奉讃文が捧げられた。続いて参列者一同で般若心経を読誦、焼香して法要を終えた。そのあと、一同、戒壇院を拝観、唐招提寺に参拝した。
中国代表団は唐招提寺
東大寺の大法要に招かれて来日した中国仏教代表団は、法要に間に合わなかったため、唐招提寺に参拝した。参拝を終えたあと、趙朴初団長は次のように語った。
「鑑真和上は、数々の困難を乗り越えて、日本仏教の興隆のために力を尽くし、また、両国の友好交流に貢献されました。その苦労を思えば、現在の日中関係の障害は、さほど問題ではなく、必ず打開できると思います。中国では、和上が日本に向けて出発した十月に、和上の法要を行う予定で、目下、紀念堂と尊像をつくっています。日本で和上が、大変、尊敬され、慕われていることを知り、大変、感銘いたしました。
「日中仏教交流戦後五十年史」より