我々は混沌している心......

修行は、御仏様とお引き取りすることではない。

私がこれほど読経したらどうなるだろうとか、

私がこれほど礼拝したらどうなるだろうとか、

私がこれほど呪文を称えたらどうなるだろうとか、

それは完全に間違っていたのである。

業と言うものは、数量や体積で現すものではない。

あなたの心の中に、この力を集約していけるか、

つまり、聖賢への、仏陀への傾きの力を。

この面から育てなければならない。

 

私達は、遥かな時間をかけてようやく私達自身の心身ともに、一種の善的な、基準に合った、仏法に沿う行いの習慣を養成できることである。然し、目下私達が、まだ一種の習慣になっていないので、この基準に基づき、この規則に従い、徐々に私達自身の心身ともに、基準、規則のある行いの状態に成り立たせるのが必要である。

 

私達は、容易く仏教における様々な修行する法門の外在形式の違いを、これらの法門の異なりに等しいことはできない。すべての法門は最終的に仏法の本質に辿り着く。まるでお寺の中に沢山の門のあるように、これらの門は私たちに仏法の奥義に行かせ、見行堂、斎堂、仏堂に入り込ませるためにあり、同じ役割になるのである。それぞれの一念に固持して、外在の形式しか見えず、形式の本質の意義を見落としてはいけない。

 

我々が様々な儀礼規範を修行することは、ただ修行の方法で、修行の目的ではない。 我々の目的は成仏することであり、この一種の方法は、より多くご奉仕、精進することに必要である。

 

我々は混沌している心を徐々に清らかにさせ、粗い心を次第に細かくし、浅薄な心を一歩一歩と深くさせていくうちに、心の中に最も深いところの境界が見えて、我々の思想が一体何だかがはっきりと認識できてることによって、我々の心は、ますます鋭く、繊細、活発になり、ますます力強くなり、ますます師・法・友に、三宝に、御仏様・菩薩の境界に応じ合っていくのである。

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