中日仏教交流の架け橋-空海和尚

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帰国布教

恵果和尚が入寂した後、空海は、毎日師匠に会いたくて仕方がありません.ある日、空海が一人で打坐していると、恵果和尚が雲に乗ってやってきました.

「師匠」.

空海は、大きい声で叫びました.恵果和尚が、何も言わずに空海を見て、去っていきました.その瞬間、空海は悟りを開き、かたくなる心を捨てました.

そして、空海は、すべての縁を捨て、未来へ向かって歩き出しました.

空海が日本にもって帰ったのは、密教経典216部、計461巻、曼荼羅法具及び密教列代師祖から授けられたものでした.日本にはまだ密教の経典が入っていなかった時代、これらの経典、法具はいかにも貴重なものでした.

空海は、20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したため、当時のきまりではそれは闕期の罪にあたるとされました.

帰国した空海は、入京の許しを得るまで、二年間大宰府に滞在することを余儀なくされました.

西暦809年、嵯峨天皇が即位した時、空海が入京しました.それをきっかけとして、布教は新たな段階にはいりました.嵯峨天皇との関係も親しくなり、その名声は大きく高まりました.

西暦809年11月、空海は国家を鎮護するために密教の大法要を行わいました.その場で空海は手に印を結び、口に真言を唱え、心を集中して仏さまの境地に入ると、身はたちまちにして金色の光明を放つ毘廬遮那如来のお姿となられ「即身成仏」をただちにお示しになったのです.その場にいらっしゃた天皇と官僚たちが感動されて涙までも含んでいました.それで、仏法の広大無辺のことを固く信じるようになりました.

空海が帰国した後、天皇に重用されたことは、一生の大きな転換でした.しかし彼は、密教は帝王だけのものではないと考え、高野山を建立しようとしました.高野山は、平民の寺であり、大師弟子の寺でした.日本で密教を発展させる方法は、一つしかありません.それは帝王だけでなく、すべての平民にも密教を学ぶ権利を持たせることです.

以上、「唐密」がどのように日本に伝わったことを紹介しました.日中友好には、仏法的な縁もあるというほかありません.

 

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