中日仏教交流の架け橋-空海和尚

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恵果和尚は、空海を一番大事な弟子として育成しました.他の弟子に、「空海は、もともと三地の菩薩だ」と言ったことがあります.この話によると、空海が普門大機であることがとっくにしています.

空海は、青龍寺に入ってから、一ヶ月で大悲胎蔵の学法の灌頂、二ヶ月で金剛界の灌頂、三ヶ月で伝法阿闍梨位の灌頂を受けました.空海は、三ヶ月の間に、他人が一生をかけて勉強し切れない智慧を把握しました.

他の弟子だけではなく、師匠の恵果和尚も「不思議だ.不思議だ.」と、称贊しました.

恵果和尚は、空海だけに、「私の弟子は、出家する者も在家の者もとても多いのであるが、みな一部の大法しか学ぶことができない.或は、一尊一契を得られようが,兼学して精通できるものは、一人もいない.だが、君は、数ヶ月で、两部秘奥壇儀も印契してしまった、本当に今までなかったことだ」.どうしてそのように育てたかといえば、まず、空海がとても賢かったからです.そして、恵果和尚がこの世に居る時間が、もう長くなかったからです.

恵果和尚は、「私は、もう年だ.この世を去っていく日が近づいてきました.君は、この因縁をよく把握して、密教を発展させよ」と命じました.恵果和尚は、空海が布教するだけでなく、仏教の経典、法具などを海外へ持ち出すことを希望しました.自分の弟子の中で、空海だけが密教を哲学化、教理化して、受け継ぐことができると分かっていたからです.密教は、最初インドで盛んになったが、やがて衰えてしまいました.今、中国に伝わってきて、さらに盛んになっていますが、必ず落日が来ます.しかし、密教を外国人に教えれば、また、他の国で発展する可能性があります.実際には、空海と出会う前に、恵果和尚の下で修行した外国からの弟子もおり、恵果和尚も韓国、日本、東南アジアに密教を発展させたいと思いましたが、それらの外国弟子の中で空海のように密教を理解できた者はおらず、その希望を実現できませんでした.恵果和尚は、密教がインドから中国に伝わり、さらに、東の日本へ広まっていくことを予見しました.

ある日、恵果和尚は、何か重要なことを知らせるために、空海をそばに呼びました.

「空海、お前はすでに大法を把握して、経典書写の作業も完成した.早く故郷へ帰って、布教するべきだ.それこそ、万民の福、天下の幸いである.」

恵果和尚は、息弱く語り、余命いくばくもないようでした.

「師よ、私は帰りたくない」

不吉な予感を覚えた空海は、思わず涙を流していました.

「かたくなになるでない.もう縁は終わろうとしている.ここにいても、意味がない.二部の曼荼羅、百部あまりの金剛智、三藏転付の物,及び供养法具を全部あなたの国に持っていくがいい.これで、大唐以外の人でも、親しむことできる」.「私は、もう年だ、残る日が少ない.悲しむな.生死は、とても正常なことだ.私たちの間には深い因縁があるのだ.何回も約して、師匠と弟子としてこの世に来て、密教を布教する.今回はお前が弟子、私が師匠であったが、来世は私が君の弟子になるかもしれない.詳しい因縁は、言ってはいけない」.言ってはいけないが、空海は、もう大体わかりました.ただ、師匠に対する感情が深いので、この話を聞いて、とても悲しかったのです.

「時々刻々世界大衆の福祉を考えて、大衆のために一生を貢献することこそ、師匠に対する恩返し、国への忠誠、親への孝心だ.帰国して密教の最高の学問を布教できるとしたら、他に望むことはない.早く帰れ」.

中国の歴史を振りかえってみると、恵果和尚が心配していたのは、「会昌法難」でした.

恵果和尚は、唐順宗永貞元年(西暦805年)十二月十五日に入寂.空海が恵果の下で行った修行は半年で終了し、わずかな期間だったが、国境を超えた、密教継承史における成果は大きなものでした.

空海は全弟子を代表して、和尚を顕彰する碑文を起草しました.有名な<大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚の碑>が誕生しました.この日本人により著された碑文は、中国では散失したが、空海が日本に持ち帰り、『性霊集』に収められました.

空海が長安に居た時間は長くなかったが、多芸多才で、様々な方面で業績をあげました.能書家として知られ、篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての書体をよくしました.「五筆和尚」と言われました.

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