韓国仏教と中国天台宗との深い源

    以前、東アジアの三つの国(中国、韓国、日本)の人々は、中国から入ってきた仏教という黄金の絆で繋がられていた。その中で中国仏教の天台宗は黄金の絆の重要な一環となっていた。天台宗の実質的な開祖となる天台智者大師の円寂1400周年を記念するために、ここで、韓国仏教と中国天台宗との交流歴史を簡単に紹介する。
 
    韓国仏教は四世紀に中国から伝わったものである。当時、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済という三つの国に分かれていた。372年、中国姚前秦時代の苻坚は使節及び僧順道法師を派遣し、仏像と仏経を高麗に贈った。384年、インドの僧摩羅難陀は東晋から百済に赴き、仏教を伝えた。これからまもなく、新羅は高句麗から仏教を受け入れた。
 
    海東では天台思想と最も早く接触した新羅人は玄光法師だった。南朝の陳の時代に、彼は南岳衡山に行き、天台二祖の慧思について仏法を学び、智とともに南岳一派28名のエリートの一人となった。『法華経―安楽行品』に基づいて慧思に法華三昧の悟る方法を伝授されてから、懸命に勉強したお陰で、ようやく華三昧を悟った。慧思から認可をもらった後、指示に従って新羅に帰った。そして熊州翁山で寺を建て、法華三昧を悟る方法を伝授した。一時、門下の弟子が多くなった。
 
    その後、高句麗から来た般若法師も南朝の陳の時代の中国に行き、まず金陵で仏法を聞いたり解説したりしていた。589年、隋が南朝の陳を滅ぼしてから、金陵を離れた般若はいろいろなところで仏法を学んだ。596年、天台山に入り、智者大師を師として仏法を求めていた般若は、やがて悟りの境地にたどり着いた。その後、天台山の华顶峰に隠遁し、16年間で頭陀行を修めた。613年、山をおり、国清寺に行った般若は、まもなく国清寺にて円寂した。
 
    隋の時、中国に入って智者大師を師とした新羅僧侶の縁光法師がいた。彼は『法華経』に没頭し、多くのことについて悟りを得た。智者大師が円寂してからまもなく国に帰って、天台宗の基となる経典の『法華経』を主に解説し、法華の教義を広く伝えた。そして、毎日『法華経』を読経しつづけた。80歳の時円寂して火葬されると、なんとその舌が完全そのままだったと言われている。
 
    唐代天台宗八祖の左溪玄朗の時期に至ると、弟子の理应と纯英を連れて、中国に入った新羅の法融法師は、玄朗大師の下で学んでいたため、唐代天台宗を中興した祖师荆溪湛然尊者と同門になった。その後、三人は国に帰って、天台の教義を広く伝えた。
 
    唐代末年、「会昌の廃仏」のせいで、天台宗経典の典籍は大量に壊されたり、失ったりして、滅びる寸前だった。五代の吴越王钱弘俶は仏教に敬慕して、天台宗の名僧義寂の提案で朝鮮、日本に使者を派遣し、散逸した天台教典を訪ねた。961年、高句麗の国王に中国に派遣された僧谛观は、若干の論述と著述を螺溪义寂尊者のところに送り届けて、义寂のとなりに残して仏法を研究した。十年後(約969年)、天台山で涅槃に入った谛观は後の世まで伝わる有名な『天台四教仪』を著した。中国に天台教典を持ち帰ることは、天台宗が宋朝での復興にとって極めて大きな役割を果たした。五代の時、高句麗から晋の天福末年のころ中国に入った义通尊者は、まず德韶国師から仏法を受け、それから义寂の門下に加わって、一心三観の仏理を研究して、20年間も仏教を広く伝え、その名は遠くまで知られていた。义通は身につけた仏理をふるさとに持ち帰ると思っていたが、四明郡守钱惟治の厚意は断り難く、結局帰らなかった。开宝元年(968年)、弟子の誘いに応じて四明传教院で仏法を伝えた。端拱元年(988年)、ここで涅槃に入って、後世の人に天台宗第十六祖と尊ばれた。彼の弟子の四明知礼(天台第十七祖)と慈云遵式と共に宋朝初の天台宗を中興した高僧である。
 
    五代から宋まで、中国に来て天台教観を学ぶ海東僧侶は数多いので、わざわざ天台国清寺の前に悟空法師が新羅園を建て、彼らを留めなければならなくなった。
 
 宋の時、天台教義が高句麗で普及するにつれて、高句麗の大觉国師義天に至るまで天台宗を初めて創立した。義天は高句麗文宗王の第四王子で、11歳の時に出家して、内外の経典を研究した。1085年、弟子を連れて宋に入った28歳の義天法師は、宋哲宗の礼遇で、当時中国の高僧50人ほどあまねく面会して、仏法を議論した。杭州天竺寺の从谏尊者を師として天台教観研究し、天台山智者大師の塔を巡礼したことがあった。教義に従って、いつかふるさとに帰り、命を尽くしても仏法を広く伝えるという願をかけたこともあった。中国にいた十四月で各宗派の典籍を集め、経書千冊を国に持ち帰ったため、高句麗の宣宗王及び皇太後に大歓迎された。義天は力をこめて天台教義を広く伝えたため、天台宗は大いに盛んになった。義天は円寂した時わずか47歳であったが、その弟子が千人ほどいて、その中には有名な人がさらに160人もいた。天台宗だけでなく、韓国仏教全体にとって大きな影響を与えた。
 
 宋の末、圓妙了世国師は全罗南道江津万德寺で天台白蓮結社を建て、高句麗末期の仏教の一時の中興を促した。
 
 天台宗を含んでいる海東仏教は高句麗王朝が支配した471年間で大いに盛んになった。しかしながら、朝鮮李氏王朝には仏教を抑える政策が下された。その状況で、天台宗は禅宗と一つにまとめられた。それから、天台宗は仏教を抑える波に吸収されて、民間の深層の中のみで伝え続けられた。称賛に値するのは、ただ天台宗を研究し、『蓮経別賛』を著してある梅月堂の金时习(1435―1493)と「注:雪琴居士查无此人」、『禅学入門』を書き、天台止観がすなわち天台禅ということを論述した月窗居士金大铉(1855)と二人のみである。
 
 現代に至るまで、やっと立ち直った韓国天台宗が、いち早く発展した。1945年、上月圓覚法師は韩国忠清北道の丹阳郡の小白山の間で救仁寺を建った。1966年、天台宗に再建された救仁寺は、第二年で政府の登録を受けて、天台宗を成立した。上月圓覚法師は初代の宗正を就任した。1982年、韓国天台宗は金剛学院を創立し、金剛仏教大学も内設された。1985年月刊の『金剛』を創設した。
 
 現在、小白山の救仁寺はすでに韓国仏教天台宗の本部となって、支部の寺及び仏教団体などが350所で、信者が167万人に達している。
 
 韓国天台宗は宗団の三つの目標を打ち出した。一つは国を愛する仏教を建つこと。その内容は、福祉社会の建設を貢献するため、民族の中興事業に身を捧げることと、国民の道義を尽力して再建するため、社会を浄化する活動に熱心に参加することである。二つ目は仏教を生活化にするのを呼びかけること。その内容は、幸福を祈る仏教から幸福を享受する仏教まで、暇な仏教から生産する仏教まで、アイドルの仏教から実践の仏教までになるのを呼びかけることと、生活を実践することこそ、仏教を実践するという理想を打ち出すことである。三つ目は大衆の仏教を体現すること。その内容は、伽藍の仏教から民衆の仏教まで、家出の仏教から在家の仏教まで、厭世主義の仏教から救世主義の仏教までになることを呼びかけることである。
 
 韓国天台宗は我が国の仏教界との関係がとても良好である。1992年、韓国が中国と外交関係を結んで以来、韓国天台宗はよく訪中団を派遣して、我が国の天台祖庭を参詣しに来る。1995年、我が国と協力して天台山国清寺で中韓天台宗祖師記念堂を建った。記念堂の中に智者大師と韓国天台宗の大覚国師、上月祖師を祭っている。記念堂の落成式で韓国天台宗から300人あまり規模の代表団を派遣して参加した。1996年5月、国清寺が建ってから1400年と智者大師が円寂してから1400周年を記念するため、天台山国清寺は一年を繰り上げて法会を行った。韓国天台宗から200人あまりの人によって組まれた団体が参加して、日本天台宗も参加した。中韓日三国の天台宗信者は一堂に楽しく集い、大盛況であった。同年9月、中国仏教協会が主催する明旸法師を団長とする30人あまりの代表団は韓国を訪問して、韓国天台宗が主催するた智者大師が円寂してから1400周年を記念するための中韓日天台宗の法会に参加した。1997年4月、中国仏教協会に組織された刀述仁副会長を団長とする代表団は韓国天台宗の釜山三光寺の九層宝塔の落成式を参加して、中韓両国の仏教界の友情をさらに増進した。仏教事業の発展と共に、中国天台宗と韓国天台宗の間の交流は必ず日増しに頻繁になると信じている。
 

「中国仏教の伝播と啓発」

——仏教におけるアジアの歴史と文化を描く

国際シンポジウムの開催式にて

中国仏教協会副会長 学 誠

2011年6月18日

「過去から現在にかけて、アジアの文化と悠久の歴史は、地球上に存在する私たち人間の、もはや半数以上の人間の共有する事実となった」(マーフィー・ローズの『アジア史』).この記述からアジア地域の歴史の悠久さと文明の複雑さを伺うことができます.しかし、そこから文化の推移――仏教文化   を発見することができます.仏教の広範囲な伝播はアジアの歴史において大いに貢献してきました.仏教がインドからアジア全体に伝わっていくプロセスの中で、中国の仏教は中枢的な役割を果たしてきました.中国の仏教はインド仏教の要諦を受け継ぎ、東アジア各国に伝え、仏教の再興をもたらし、後のアジア諸国に深遠な影響を与えたのです.

漢の明帝が仏法を求める使者をインドに派遣したことは、仏教が正式に中国に伝わる象徴的な出来事であります.地理環境、文化風俗がインドとはまったく異なる中国で仏教が深く根ざすことができたのは、歴史的な因縁があります.漢の時代では、儒教徒が天人感応を信じ、また陰陽五行説、讖緯(しんい)説、巫蠱(ふこ)などの方術も民間に氾濫し、社会に混乱をもたらしました.漢の時代の方術は迷信の色合いが濃く、功利主義の傾向があり、人々の宇宙の秘密を探求する要望と人生の意義を追求する願望には答えられず、道徳倫理の基本まで侵食されていました.そこで、論理的な思考に拠る、因果応報を重視する仏教思想は儒、道学説の欠陥を補い、社会発展の要求に合致したため、統治者の礼遇と支持を得ることができました.取経、訳経、釈経、授経などの活動の展開に従い、外来と本土の高僧の協力の下、仏教はやがて魏晋南北時代に社会広範囲の信仰を得られ、極めて大きな進展を遂げたのです.

隋唐の時代は中国仏教が発展の頂点に達し、当時の中国はすでに仏法の最も敬虔な国となり、最も熱情のある仏教の伝播者でもありました.敬虔たる者の魂の代表者は玄奘大師で、伝播者の魂の代表者は鑑真大和尚であります.この二人は中国仏教の"前を受け継ぐ時代"の終了、"後に啓発する時代"の始まりを告げました.玄奘大師は五万里という長い旅を歩き、インド各地を訪問し、さまざまな師を訪ね、インド仏教の各派の学説を研鑽し、造詣も深く、インド僧俗各界の尊敬を得ました.玄奘大師が帰国後、経典を翻訳することと弘揚することを志し、インドの仏教思想の精華――法相唯識宗を完全に中国に導入しました.これは仏教の中心地が東に移ったという意義を象徴しています.鑑真大和尚は中国の仏教の思想の結晶――唐の時代の律宗と隋の時代の天台宗を総じて日本に伝えました.鑑真大和尚が提唱されている梵網戒と天台教義は日本の仏教の個性の成り立ちに大きな影響を与えました.このふたりの大師の、仏法のためには命も惜しまないという精神は、後世の人々に強靭な意志と魂を残し、アジアの国々の平和共存と世代友好にも歴史的な貢献を果たしました.

宋の時代以降、本土宗派が正式に設立され、修学の体系も日々完備され、漢伝仏教は僧侶と官僚貴族の独占から、一般の庶民の日常生活に浸透し、「家々に阿弥陀、戸戸に観世音」と言われるほど社会全体に伝わりました.ある意味では、観音信仰は中国の仏教の独特な特徴であります.来世の極楽をもとめる阿弥陀仏の教えと違い、観音菩薩は人間を現実的な苦難から救い出し、衆生を導きます.数えきれないほど観音様の救済事跡を総括した『三十三の観音』は、観世音菩薩の大慈大悲精神の完璧な表現であります.菩薩は神秘的な存在ではなく、一般の人々の心のうちに生きています.今、観世音菩薩の中国化された人物像はすでに人々の心に深く根ざしていて、アジアの隅々まで浸透されています.観音信仰は「アジア人の半数の信仰」と謂われ、「人間仏教」を推し進む重要な原動力でもあります.

文化の進捗と時代性は、その文化が広く伝播されるかどうかが鍵を握っています.中国の仏教はなぜ東アジアの国々に広く伝わったのか.それは、単にインドの仏教を受け継いだだけではなく、仏教の伝統を創造的に発展させ、深化させたからであります."前を受け継ぎ、後を啓発する"というふたつの段階をうまく融合させ、"前を受け継ぐ"という段階では、仏教を学習し、吸収し、"後を啓発する"段階では、創造的に発展させ、伝播することです."前を受け継ぐ"ことは"後を啓発する"ことの前提条件で、"後を啓発する"ことは"前を受け継ぐ"ことの必然たる発展であります.

歴史を振り返りますと、中国の仏教は一貫して深遠たる豊かな中国文化の基盤に根ざし、健全な発展を遂げました.中国文化の大乗的な特徴があるからこそ、仏教の慈悲と智慧というふたつの精神は円満に発揚することができました.これは中国文化がアジア及び世界に大いに貢献できることであり、仏教が民族、文化の違いを超え、素晴らしい発展が遂げた成功事例でもあります.中国仏教の発展の歴史的な経緯は、仏教がグローバル化しつつ今日において、必ずや人々に深い啓発をもたらし、重要で指導的な役割を果すことができると確信しております.

深層での文化交流の促進に仏教が果たす重要な役割

歴史の歯車は文明時代に入ってもう五千年ほどになります.このような長くまた短い人類文明史を振り返ると、人類三大文明の体系は今でも世界の発展メカニズムに深い影響を与えていると見ることができるでしょう.古代ギリシア——ローマ文化に基づく西洋文明体系、儒教——道教文化に基づく中華文明体系とバラモン教——仏教文化に基づくインド文明体系とが、世界三大文明体系と呼ばれています.その中で、インド文明体系はアジア大陸とヨーロッパ大陸の間に位置しており、またその文化には内包し融合する特徴があるので、中華文明と西洋文明が解け合うために重要な連結作用を発揮することができます.

まずは宗教の連結作用です.西アジアから発したキリスト教とイスラム教は、古代ギリシア——ローマ文化の特徴を吸収した後、西洋宗教の代表になりました.西洋宗教の決定的な特徴は一神教であることです.一神教の世界では、神はすべての宇宙および人類を創造しました.人類は神の制定した法律に従うときにだけ、自分の名誉、慰め、満足を見付けられます.にもかからず、人は神になれない、人と神の間で永遠に超えられないギャップが存在しています.また東アジアから発した儒教と道教は、儒家と道家文化の特徴を吸収した後、東洋宗教の代表となりました.西洋の一神教とは対照に、東洋宗教の決定的な特徴は無神教です.無神教の世界では、宇宙万物を創造して統治する神が存在せず、宇宙万物を生み出すことも運行することも、最も基本的な法則、つまり最高の「道」に従っています.人は身を修めることによって、道を悟った聖人となり、天地万物と合わさって一体となります.南アジアから発したバラモン教は、仏教とジャイナ教の教義を吸収して、しかもインド民間の信仰に基づいて、さらに今のインド教になっています.インド教には西洋宗教と通じ合うところもあるし、東洋宗教と同じところもあります.西洋宗教と通じ合うところは、インド教も世界および人類を創造した神が存在することを認めることであり、この神は「梵天」と呼ばれます.東洋宗教と同じところは、インド教でも宇宙の本体は「梵」と考えます.人は修行を通して、「梵我一如」というような境地を達成し、解脱することができます.仏教も「梵天」などの普通の人を超えた能力をもっている神の存在を認めており、そしてそのような受け入れられた神は、仏教の守護神になります.しかし、神は宇宙の創造者ではなく、神も宇宙の法則に支配されます.その一方、人間は修行を通じて神になれるだけでなく、宇宙の法則を洞察することで、神を超越する聖人になることができます.

次は哲学での紐帯作用です.西洋の哲学体系は、古代ギリシア——ローマの哲学に基づいて、知性的な理性の追求を強調し、次第に自然哲学と民主政治の二つの領域へと発展していきました.自然哲学は自然を理解することと、神様に接近すること強調します.民主政治は公平、公正な人類社会の樹立を望みます.東洋の哲学体系は、儒家——道家に基づいて、道徳的に直感的な認識を強調し、次第に修身哲学と論理政治の二つの領域へと発展していきました.修身の哲学は自分と大道を認識することを望みますが、論理の政治は安定、秩序がある人類社会の樹立を追求します.インド教——仏教の哲学はインド哲学体系を決定的に代表するものです.この哲学体系が、東洋と西洋の哲学体系の両方といくらかの共通の特徴を持っていることは容易に分かると思います.インド哲学が持っている論争の精神は、西洋哲学より勝るとも劣りませんが、さらに百家争鳴のようなさまざまな哲学流派になりました.インド哲学は認識の特徴の方を偏重しており、中国哲学とは異曲同工であるように感じられます.そのためにインドでも中国でも、仏門に入って修行するのはありふれたことではなく、人を尊敬させる一つの生活様式です.

総じて、東洋と西洋の文化は自身を生み出した地域の文化背景の相違によって著しい差異を現わしてきました.それを両方の文化に融合することは困難でした.一番典型的な例として、西洋のキリスト教が中国に伝わってくる際のその過程の辛苦に過ぎるものはありません.

実は、唐の時代からキリスト教が中国に現れましたが、わが国の信仰する物とは大きいな差異がありましたので、社会の主流に融合することはなかなかできませんでした.いまだに人達はまだそれを西洋教と見なすことに慣れています.また、前世紀の始まりに、新文化運動が起こるに伴って科学と民主は西洋文化の主要な内容として中国に進出してきました.それからほぼ百年も経ちましたが、表面的には科学技術は中国の地で応用されるようになり、あちらこちらで出現したり普及し発展したりし、先進的な生産力が社会を前進させましたが、それはまだ工程と技術の段階に限ったものでした.

真の科学精神と基礎理論への探究では、中国と西洋にはまだ大きな差異があります.その次にくるのは、民主的な考えです.実践を通じて証明されたのは、西洋の民主的なモデルが中国の現実社会には適合できなかったことです.国情や文化特徴の独特さのために、中国には西洋の民主政治をそのまま用いることはできないと決しましたから、自分の特徴に相応しい社会制度に辿り着かなければなりません.しかし法治の意識を培養するのは一刻を争う時代の要求であります.歴史や現状がはっきりと示しているのは、中国の文化と西洋の文化がもっと深く融合するのが歴史の必然であることである以上、それは時代の要求でもあります.

五千年余り以上の人類の文化史を振り返る時、ある大事件が名も実も歴史に残すに至りました.それはインドに生み出された仏教です.約二千年前に中華に伝わってきて中国の社会に大成功裡に融合し、その名に恥じず、中華文化の三つの主流の一部になりました.それだけでなく、千年以上を経た昔、中華文化を始点にして仏教はさらに日本、韓国、ベトナム、シンガポール、マレーシアなど、東アジアおよび東南アジアの諸国にまで進出しました、そのために、仏教は名実相適った世界宗教になりました.その価値の通りに、前世紀の初め、仏教は勢い盛んな生命力と独特な適応の能力のお陰で、欧米などの西洋の諸国に広がって伝えられました.ますます多くの西洋人達がこれを好み、イギリスの名高い歴史家であるトインビー博士は「二十世紀に人類が迎えた最も大きな事件の一つは、仏教を西洋に伝えた事だ」と考えていました.その事件が重要だと言われた理由は、それが、中華文化と西洋文化が深く融合する現実的な可能性を提供していたからです.

実のところ、もうそれはある単なる可能性だけにとどまらず、既に現実になっている、あるいは現実になりました.みなさんご存じの通り、仏教は紀元前の6世紀にインドに生み出され、バラモン教をもう散り散りにしてしまいました.仏教は勢い盛んな数百年の後、かえって8世紀にインド教(新たなバラモン教と言うべきもの)が現れて盛んになったときには新鮮な血液を輸入して、インドの文化を再生させて延長させました.その間、仏教はスリランカ、ミャンマー、カンボジアなどの南アジア諸国に伝わり、そしてその本国の主要文化の形になりました.西暦元年ぐらいの時、仏教は中国に伝わってきて、その後の五、六百年の間に、仏教は中国本国の文化と十分に結びつき、融けあって、結局唐代には仏教文化だけがあるほど盛んになりました.仏教文化が繁栄すると、かえって中国本国の文化が新たになるのを促進しました.具体的に言えば、儒教文化の理論的な含意を充実させたのです.それは、未来の中国の主流社会に影響する宋代、明代の理学になりました.同時に、道教を外丹学から内丹学へと変化させました.紀元6世紀仏教が日本に伝わり、同じように、紀元7世紀わが国のチベットに伝わってきたようです.仏教は日本の神道信仰と結合して、明らかに違った特徴がある日本仏教になり、チベットのボン教と結合して、独特な特徴を有するチベット仏教になりました.仏教が東アジアに伝わってきたのに伴って、印中文化と日中文化の間の交流も非常に速い進展を要しました.仏教は違う国と違う民族とを繋ぐ友情の橋になりました.

異なる文化の間であっても、ともに原因を見つける限り融合の可能性に向かって歩くことができます.仏教は一貫して個人の命を高めることと覚悟することを重視し、および団体生活の結構と秩序にまで至ります.

中華文化と融合してから、二つ特質の両方ともはっきりと積極的な作用を発揮しました.この百年以来、西洋文化が全面的に東洋社会に浸透したことに伴って、仏教の方もひっそりと西洋社会に入り込んでいきました.中華文化に適応するときの特徴と異なり、仏教は表の物質の世界を認識するときに深い洞察力を現し、公平で公正な理想社会を築くため、民主制度を高く重視しました.それを西洋社会に適応させる時、文化には妨げが存在しないのみならず、更にそれが完璧に融合できる精神的な特質を現しました.

実のところ、仏教はいま、勢い盛んな生命力で、欧米などの西洋の諸国に根を張っており、本国のキリスト教の文化と対話する中で、新たな融合に向かって歩んでいます.東洋と西洋の文化が深層で交流するのを促進する中、仏教がますます重要な役割を発揮することが予想されます.

仏陀の悟りと人類の福祉

——第八回「国連ウェーサクの日」の祝祭での挨拶

(2011年5月14日タイ・バンコク国連会議センター)

1950年以来、世界仏教徒の共同な努力のもと、仏陀のご誕生、ご成道、ご入滅の「三期を同時に祝う」を特徴とするウェーサクの日の祝祭は国と地域の境を超え、世界に向けて邁進しました.また、1999年に国連の承認を得られ、国連の日として確立されました.これは世界範囲において、仏陀の慈悲、知恵、円融の精神を拡げるために堅実な礎を作りました.

2004年の第1回「国連ウェーサクの日」の祝祭がタイのバンコクにて盛大に行われました.8年以来、「国連ウェーサクの日」を通して、世界の仏教徒は世界の人民と一緒に、世界平和の維持、持続発展の促進、公正、民主的な文明社会の建設、グローバル的な危機を乗り越える等重大な問題に、積極的な役割を発揮しました.今回の「国連ウェーサクの日」の祝祭は「仏教の社会経済発展への貢献」をテーマにして、仏教と世間の持ちつ持たれつの関係、世間を超越しながら、世間に参与し、世間の悩みをなくすという特徴を取り上げます.

長い農業文明の時代を後にして、人類社会は200年余り前に、日進月歩、盛んに発展している工業文明の時代に入りました.大規模的な生産と社会に商品が溢れていることを特徴とする工業文明は、人類に物質的な便利と裕福をもたらした一方、未曾有のチャレンジも人類に直面させました――地球の資源が迅速に消耗され、自然環境が厳しく汚染されました.世界経済の一体化に伴い、人類社会の公平と正義に関する問題は一つの国、一つの民族という制限をとっくに越えられ、世界各国、各民族がともに直面している課題となりました.経済が発展すること自体は諸問題をもたらした同時に、かえって経済の更なる発展のハードルにもなっています.

仏教は創設して以来、一貫として、人類と自然の関係について、人類と自身の関係について、超越な視点、寛大な心で扱っています.アメリカの有名な生態文学者エドワード・アビ―(1927-1989)は、「成長のための成長はガン細胞の増殖とかわらない」と記しました.発展すること自体は問題ではなく、人類の必要とする発展方向を明確にすることは肝心なことであります.それに、この発展のプロセスの中、いかに発展すること自体が本来の目的を背けないことは重要であります.ブッダの悟りは人類に莫大な福祉をもたらすことができました.人類に極めて貴重な精神的な宝を残してくださいました.「依正不二」、「自他不二」はその中にもっとも傑出な代表的なものであります.「依正不二」、つまり、人類は大自然の環境の中に身をおかれていて、大自然とは対立しているわけではありません.大自然への破壊は人類自身も影響されてしまいます.大自然を守れば、人類自分自身も守られます.「自他不二」、国と民族の発展は人類という大家庭の環境の中におけば、国と国、民族と民族の対立がなくなります.人類全体も家族と同じようになり、あらゆるの有情が繋がっているように考え、動物などの有情への傷害はかならず人類自身にも及ぼします.他の有情への愛護は人類自身への愛護と等しいです.この「不二法門」の啓発に従えば、人類が「成長のための成長」というジレンマーに陥れないようにできます.人類社会の発展も穏健、幸福、輝く道を歩むことができます.

世界経済のグローバル化の発展につれ、人類の運命は緊密に連携するようになりました.この時代の流れに乗って、世界仏教徒はもっと団結一致するべきで、仏陀の恩徳を浴しながら、仏陀の「慈悲済世」の精神をもっと広く発揚するべきであります.疑い事も無く、第八回「国連ウェーサクの日」の祝祭を行うことによって、世界仏教徒はこの方面において、大きな一歩を前に邁進することができます.タイ政府とマハチュラロンコーン大学の弛まぬ努力に衷心より敬意を申し上げます.重ねて、ブミボン国王の84才の誕生も衷心より祝福の意を申し上げます.タイの国民に深く尊敬されているブミボン国王は福寿無彊できるようにお祈り申し上げます.

最後に、本大会が円満な成功を収めるよう祈念し、私の挨拶と致します.

黄金の絆

——趙僕初居士

趙樸初居士は、1907年11月5日に安徽省太湖県に生まれました.若いころは、蘇州の東呉大学で勉強しました.1928年から上海江浙仏教連合会の秘書、上海仏教協会の秘書、「仏教浄業社」社長等の職を歴任しました.1938年から、上海文化界救亡協会理事、中国仏教協会秘書•主任秘書、上海慈連救済戦区難民委員会常務委員兼収容主任、上海浄業浮浪児童教養院副院長等の職を歴任しました.1953年から、中国仏教協会副会長兼秘書長、中国作家協会理事、中日友好協会副会長等の職を歴任しました.1980年から中国仏教協会会長、中国仏教学院院長、中国チベット語高級仏教学院顧問、中国宗教平和委員会主席、中国書道家協会副主席などの職を歴任しました.

趙先生はまた、第一、二、三、四、五回の全国人民大会代表でありました.愛国宗教界の代表として、中国人民政治協商会議の第一回全体会議に参加しました.第一、二、三回の全国政治協商委員会委員を歴任し、第四、五回全国政治協商会議常務委員であり、第六、七、八回の全国政治協商会議の副主席を歴任しました.

趙先生は中華人民共和国が成立して以来、中国仏教界の主要指導者であります.半世紀にわたり、趙先生は終始一貫して、仏教の中国現代社会との適応化を模索してきました.仏教はどのように「愛国と愛教」の道で調和できるか、仏教はどのように現代社会に役に立つかというテーマを巡って考えてきました.何十年以来、趙先生は中国仏教界をリードして、政府の宗教の信仰自由政策の着実な実行、僧侶管理制度の健全化、仏教の国際交流などの方面に極めて重要な貢献を果たしました.趙先生は中国共産党および中国政府と肝胆相照らし、栄辱を共にする友であり、中国の広い範囲の信者達に尊崇されている指導者でもあります.また、趙先生は高く評価されている社会活動家、詩人、作家でもあります.

2000年5月21日に、趙先生は享年93歳で逝去しました.趙先生は晩年、体が弱く、多病だったにもかかわらず、慈善事業に熱意を持って、よく自然災害被災地に救済募金活動を行いました.自分の原稿料と一生の蓄えを全部慈善事業に使用しました.生前、自分の遺体を医学機関に献体するようにという遺言を書きました.また、死後、遺灰も残さない、骨壷も要らないと希望しました.「生固欣然、死亦無憾.花落還開、水流不断.我兮何有、誰与安息.明月清風、不労尋筧」という四言詩も書いて、仏教徒としての死生観を表しました.

中日仏教文化交流の架け橋を再び作り、両国民間外交を促進

1952年、北京で開かれた「アジアおよび太平洋地域の平和会議」の際、 趙樸初先生は中国仏教界を代表して、日本の仏教界に薬師如来仏の仏像を贈与しました.これは日本の仏教界の友好人士の間で、大きな反響を引き起こしました.

1953年初め、日本の仏教界の友好人士が連名で、中国仏教協会に返信しました.書簡の中に、中国人民に厳しい災難を及ばした侵略戦争を阻止できなかったことに懺悔し、また、両国の仏教界の友好関係を再び結びつけることを強く希望するとの内容がありました.

1955年に、日本で開かれた原水爆禁止世界大会に趙樸初先生が出席しました.その後、1957年に再び会議に出席しました.趙樸初先生および中国の代表は会議に参加するという機会を利用して、日本の仏教界の人士と広く交流しました.

「文革(文化大革命)」後、趙樸初先生と中国仏教協会は積極的に日本との仏教文化交流を展開し、両国人民の理解と友情をさらに深めました.

 1978年4月、趙樸初先生を団長とする中国仏教協会訪問団は日本に3週間にわたる訪問をしました.これは「文革」後中国仏教協会の初めての日本訪問であり、空前の成功を収めました.

「黄金の絆」再び取り上げ、東アジアの仏教文化交流を推進

1993年趙樸初会長を団長とする中国仏教協会代表団は、日本側における中国仏教協会設立40周年記念活動に参加するため、日本訪問しました.韓国の仏教界の代表も会議に出席しました.趙樸初先生は挨拶に、「中、日、韓三国の仏教文化は私たちの三国国民の黄金の絆であり、この絆を大切に守り、引き続き発展させなければなりません.」と述べました.趙樸初先生のこの三国仏教の「黄金の絆」という比喩と三国仏教の友好交流を発展させる構想は、直ちに韓国と日本の友人に賛同と共鳴を得ました.三国の仏教界の代表がともに相談し、準備し、「中、韓、日仏教友好交流会議」は1955年5月22日に北京にて成功裏に開かれました.

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