中国から初の訪日代表団


中国に新政府が誕生してから五年目一九五四年十月、まだ、日中両国の国交回復の見通しが立たぬさなか、中国から初の訪日団として、中国紅十字会訪日代表団が来日した。 これは日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会の三団体が、前年、北京で中国在留日本人帰国問題で中国側と交渉した際、中国紅十字会が、大変、協力してくれたので、その努力に感謝するため、三団体が政府の反対を押し切って招待したのである。

李徳全(中国紅十字会会長)、廖承志(同会顧問) 以下十人の代表団は十月三十日から二週間日本に滞在、東京、名古屋、京都、大阪、神戸の各地で、各界、諸団体の歓迎会、座談会などに出席、友好交流を重ねた。

李徳全団長一行は京都滞在中、十一月七日午後四時、東本願寺を訪れた。末広愛宗総長、菅原恵慶同事務局長ら、多数の出迎えを受け、阿弥陀堂、大師堂に参詣、そのあと、書院で大谷光暢法主と面会、日中仏教徒の交流について懇談した。

席上、李団長は「今後が、日中両国の仏教研究を促進するため、中国の文献や資料を大いに活用していただきたい」と日中の文化交流の必要性を強調した。

このあと、一行は西本願寺を訪問、藤音得宗務総長、森川智龍谷大学学長らの出迎えを受け、白書院で懇談した。

席上、森川学長から、「戦後、途絶えている日中間の仏教学術交流を再開することは、極めて大切なことであり、是非、実現するよう努力していただきたい」と要望があり、同大学から仏教学関係図書、雑誌など二十二冊が中国側に贈呈された。李団長はこの申し出を快諾、懇談会は和やかに終わった。一行は続いて御影堂、阿弥陀堂に参詣、飛雲閣を参観した。

訪日団が東西両本願寺を訪問の際、廖承志副団長から「中国浄土教発祥の聖地、玄中寺(山西省交城県)は、中国の最重要文物であり、政府によって、修復されることになった」ことが明らかになった。

日本浄土教の祖庭、玄中寺の消息については、戦後、全く、不明で戦争によって破壊されたという噂もあった。

玄中寺の存否に、長年、心を痛めていた菅原恵慶師(曇彎大師奉賛会会長)は「玄中寺修復の朗報は、中国から日本仏教徒にもたらされた最大の贈り物である。全く喜びに堪えない」と語っている。

日中仏教交流 戦後五十年史


中国から友好と平和を願う仏像渡来

ここに、一枚の古ぼけた写真がある。写真中央に白い布の式台があり、仏像が安置されている。その仏像を囲み、十四、五人の人たちが座り、立っている。僧衣をまとった人も三、四人見える。かなり、年数が経っているためか、画面は色あせている。この人たちと仏像は、どのような関係をもっているのだろうか。

仏像はどこに

一九九二年五月、宗懇(日中友好宗教者懇話会)は創立二十五周年を迎えた。趙朴初中国仏教協会会長ご夫妻、金章樹駐日中国大使館公使参事官をはじめ東京華僑総会、日中友好協会、日中文化交流協会、仏教各宗派代表など来賓多数を迎え、日中友好会館で、創立二十五周年記念式典が盛大に開催された。

式典、祝賀会が終わって、ホテルに帰った趙朴初師は、宗懇の幹部たちと、くつろいだひとときを過ごした。そのときのことである。趙朴初師は、突然、思い出したように、一同にたずねた。

「ところで、四十年前、中国仏教協会から日本仏教界に仏像を寄贈しましたが、あの仏像は、いまどこにありますか」

四十年前といえば、戦後の日中仏教交流の草創期であり、宗懇創立以前のことである。

宗懇の幹部といえども、即座に返答はできなかった。

趙朴初師がたずねた仏像は、どのような経緯で日本仏教界に寄贈されたのか。それには、次のようないきさつがあった。

アジア・太平洋地域平和会議で

一九五二年――アジアでは朝鮮戦争の停戦協定が調印されたが、依然として米ソの対立は続いていた。

こういう情勢の中で、アジアの平和と戦争防止について話し合うため、五二年十月北京で「アジア・太平洋地域平和会議」が開かれ、三十七ヵ国から正式代表三百四十四人が出席した。仏教代表も十七ヵ国から参加した。

中国代表は宋慶齢団長、郭沫若副団長以下十七人で、その中に仏教代表として圓瑛法師、趙朴初師、明暘法師の三人が出席した。

日本からは松本治一郎氏以下六十人の代表が出席する準備を進めていたが、政府は旅券の発給拒否したので実現しなかった。

しかし、南博(一橋大学助教授)、中村歌右衛門(前進座)、竜田東伍(日本平和委員会)、桜井英雄(巴商事代表)の各氏をはじめ各界の代表十三人が、ヨーロッパ経由、またはその他の方法を用いて北京に入り、会議に出席した。

中国仏教協会では、日本仏教徒の参加を期待していたが、出席できなかったことを残念に思った。そこで、日本仏教界に対する中国仏教者の平和と友好のしるしとして、日本人出席者に託して、仏像を送ることにした。

そのときの中国側の心情について、趙朴初師は、次のように語っている。

「日本と中国の仏教交流は、二千年の歴史をもっています。第二次大戦によって、この交流は中断されましたが、私たち中国仏教界では、一日も早く、日本仏教界との交流を回復し、平和と友好の関係を築きたいと願っておりました。この私どもの願いを示すため、日本仏教界に仏像を贈りたいと考え、日本代表の方に託して、お届けして頂いたのです」(『宗懇』一九九二年十月号)

仏像は南博、桜井英雄の両氏に委託されたが、南氏は会議終了後、ソ連、ヨーロッパを回って、十一月十八日に帰国、あとに残った桜井氏が仏像を捧持して十二月五日に帰国している。

仏像奉仰会準備委員会を設置

この中国から贈られた仏像について、当時の新聞、雑誌などが報道した形跡は見当たらない。

日本仏教界では、中国から贈られたこの仏像を、どのように受け入れるかが、大きな問題になった。「全日本仏教会」が率先して、この仏像を受け入れるべきであると考えられたが、全仏は、中国(中共)とはかかわりたくないという姿勢であった。そこで、有志の仏教者が集まり、協議がもたれた。何回か会合が開かれた結果、「中国仏教協会寄贈仏像奉仰会準備委員会」なる組織がつくられることになった。来馬琢道(曹洞宗)、妹尾義郎(日中友好協会)、中山理々(真宗大谷派)、壬生照順(天台宗)、柳宗黙(臨済宗)の諸師が会の代表となった。

この仏像の正式の受け渡し式は、翌五三年一月十二日午後から、京橋公会堂で関係者二百人が出席して行われた。仏像を中国から委託された南、桜井両氏が所用で出席できなくなり、代理の畑中政春氏(日本平和連絡準備会事務局長)から、仏像奉仰会準備委員会の代表(来馬琢道師以下四人)に仏像が手渡された。

この仏像をどこに安置するか、準備委員会でも話し合ったが、とりあえず、代々木の新生活会館に仮安置された。

仏像の行方

さて、趙朴初会会長から、仏像の所在を聞かれて、返答に窮したことは、さきに述べた通りだが、仏像渡来からすでに四十年、当時の人たちはほとんど故人となり、世代も変わってしまった。代々木の新生活会館に仮安置されたあとの仏像は一体どうなったのだろうか。ここに、その手がかりを示唆する記録が、妹尾義郎日記の中にあるので、引用してみる。

「これは、仏像が再び代々木の新生活会館から、法要のために、浅草本願寺に移されたことを示している。法要のあと、仏像は再び、新生活会館に戻されたのか、または、ほかの所に移されたのか、このことに関係のある記事が、中外日報(昭和二十八年四月十八日付)に載っている。「銀座三笠会館で中国仏像報告の集い」の見出しである。来馬琢道、中山理々、菅原恵慶、壬生照順など仏像奉仰委員会の諸氏が、中国から帰国した平野義太郎氏(在華同胞帰国打合会副団長)を、四月十四日、銀座三笠会館に招いて「報告会」を開いた内容である。

さらに同記事には「奉仰委員会の打合会で、現在、浅草なつめ寺に仮安置されている仏像は、菅原恵慶師の提案により、台東区永住町の華蔵院(壬生照順住職・善光寺東京別院)に安置されることが決定した」とある。

これをみると、仏像は法要のあと、本願寺から近くのなつめ寺に移されたことがわかる。 そして、その後の打合会で、仏像は、なつめ寺から華蔵院に移され、安置されることになったわけである。以来四十年、仏像は果たして華蔵院に安置されているのだろうか。

華蔵院を訪ねる

筆者は、仏像を求めて華蔵院を訪ねてみることにした。住職の壬生照順師は、すでに亡くなっていたが、あらかじめ来意を告げておいたので、満子夫人が快く迎えてくださった。仏像のことをお伺いすると、まさしく、中国から渡来した仏像は本堂の奥深く、静かに安置されていた。お厨子の中におさ収めれた仏像は薬師如来の坐像で、仏身は二十五センチほど、ほんの暗い光の中にも、鮮やかな金色の姿を見せていた。思わず礼拝、合掌する。

四十年前、はるばる二千キロの海を越えて日本に渡来した薬師如来、中国仏教徒の平和と友好の願いをこめてやってきた金色の使者・薬師如来、趙朴初師の問い合わせを受けてから、さまざまな資料や記録をあさり、多くの人々に尋ねるなど仏像を探し求めて四ヵ月――ようやく、念願の仏像にめぐり合うことができたのである。

この仏像についての記録や資料があるかどうかを満子夫人にたずねてみた。雑然と積まれた多くの資料の中から、満子夫人が見つけてくださったのが、冒頭に述べた一枚の古ぼけた写真なのである。

満子夫人も趙朴初師もすでに亡く、金色の薬師如来は、日中の平和と友好を見守るかのように、そのまま、華蔵院に安置され、手厚く供養されている。

学誠会長は「中日仏教友好使者」の 則竹秀南長老ご一行と会見

2017年12月14日午後、学誠会長は「中日仏教友好使者」の則竹秀南長老ご一行と会見

学誠会長と則竹秀南長老と会談

2017年12月14日午後、中日仏教友好使者、中国仏教学院名誉教授、日本臨済宗妙心寺霊雲院住職の則竹秀南長老のご一行5名は、12月13日に南京大虐殺犠牲者国家追悼儀式の参加した後北京に赴き、中国仏教協会を訪問しました。学誠会長、演覚副会長は広済寺の懐遠堂にて則竹長老と会見しました。

学誠会長は会談には次のように述べました。「則竹秀南長老を初めとする日本臨済宗妙心寺派の各位の友人の皆様に熱烈な歓迎の意を表し、則竹長老が中国仏教界の古き友人として、中日国交正常化45周年の年に、南京大虐殺犠牲者国家追悼式に参加して頂いたことは深遠たる意義を持ち、功徳無量のことであると高く評価します。則竹長老の中日仏教友好交流及び平和事業を促進する積極的な姿勢を称賛し、このような平和を愛する、追求する精神はあらゆる仏教徒が学ぶべきであります。翌日に予定している則竹長老の中国仏教学院での講演に感謝し、学僧の皆が長老の精神を学び、中日両国仏教友好交流事業に身にささげるように期待しています。皆は両国仏教界の友好使者になるように願っています。」

則竹秀南長老は中国仏教協会及び関係方面に南京大虐殺犠牲者国家追悼式への招聘を頂いたことに感謝の意を述べ、中国侵略戦争が中国人民に巨大な被害を与えたことに深い懺悔の意と反省の意を表しました。十数年前から日本霊雲院の提唱で毎年12月13日に南京大虐殺記念館で行う「世界平和を祈祷する中日共同法要」から発展してきた「世界平和を祈願する中韓日共同法要」は今年も非常に円満に行い、今後引き続き両国仏教友好交流事業に身をささげるつもりであると表しました。

学誠会長は遠道はるばる訪問してきた古き友人のため、わざわざ出張の日を遅らし、「祖徳流芳福同四大海、共続勝縁寿等五須弥」という対聯を書き、則竹長老の80歳の誕生日プレゼントとして送りました。双方は記念品交換後、記念写真を撮り、学誠会長、演覚副会長の主催で広済寺にて歓迎宴会を行いました。普正副秘書長が司会を務めました。

12月15日午前、則竹秀南名誉教授は学生処主任の覚灯法師の主催で、中国仏教学院にて『「日々是好日」について』をテーマに講演されました。国際部李賀敏副主任が通訳として務めました。当日午後、則竹長老ご一行は友好寺院の北京霊光寺を訪問し、劉威秘書長、副秘書長兼霊光寺住職の常蔵法師の熱烈な歓迎を受けました。「中日仏教界の世界平和を祈る法要」を行いました。則竹長老の80歳のお祝いのため、茶道交流会も開き、長老の長年間の中日仏教友好交流事業に積極的な貢献に感謝の意をささげました。

禅宗の影響を受けた日本の茶室

日本の茶室は仏教の禅宗に深く影響されています。日本では、茶室は神社とお寺と同じように神聖なところであります。抽象的な建物、素朴な装飾によって仏教の禅宗の脱俗超凡的な一面を表しています。

十六世紀において、武士と政治家は茶室に集まり日本統一と改革の策略を練りました。十七世紀の徳川幕府の堅苦しい形式主義のさなか、茶室は自由思想の唯一な捌け口となりました。昨今の物質至上の現代社会において、日本人だけではなく、人々はより一層精神を鍛えられる茶室を必要とされるようになります。花、草、水を通して、禅と茶の空、閑寂の精神を目下の生活に生かします。

日本最初の茶室創設者の千宗易(千利休)が追及しているのは至上の孤独と閑寂、“放眼皆寥寂,无花亦无枫,秋深海岸边,孤庐立暮光”

茶室の装飾は極めて簡潔で、非対称的な美学論理を用いり、物質の極度の少なさで心の豊かさと強さを強調します。たとえば、一つか二つの最低限の茶室のテーマ―に相応しい必要な飾り物を置きます。丸い形の御茶碗を利用するなら、茶壺は別の形にします。お花を生けているなら、お花の掛け軸を避けます。白い御茶碗なら、お茶入れは他の色にとか。

日本の茶室は茶室本体、水屋、門廊、廊下(門廊と茶道の繋がり)から構成されています。日本の茶室は一般的に五、六平米で、広くないです。

日本茶室の面積は15世紀の日本茶道大師紹鴎が確定していたのです。『維摩経』の内容に啓発されました。維摩が五、六平米の部屋で文殊菩薩と八万四千の弟子と会っていたという内容でした。

この伝えは仏教の観点を表しています。即ち、悟りの得た人間にとっては、空間というのは存在しないのです。

茶室、茶庭(茶室前の庭、露地とも言われ)も茶室の重要な一部分で、禅宗に深く影響され、寂静と悟りの雰囲気が作られています。通常、茶庭は内、外という二つの部分に分かれ、内露地と外露地と称されています。

茶庭の静寂と悟りの雰囲気を創るため、茶道の作法により茶庭の構成を決めています。

外の世界から茶庭に入り、賑やかな世界から静かな禅の世界に入ったという意味があります。門廊から茶室への道は瞑想の第一段階と言われ、自己啓示の段階です。茶室の中で座禅することは自己を高める意味があります。

外露地、お客様が身の周りを整え、休憩、お手洗い等を設けられています。

内露地、休息場所、お手洗い、蹲踞、茶室等を設けられています。

二者の間の分界線は一つの枝で作った壁で、壁に「中潜」と呼ばれる枝折戸があります。

内、外露地に分かれる二重露地の他、内外分かれず一重露地と三重露地という特別の形式の茶庭もあります。

茶庭では、露地門、中潜、躙口いずれも深い寓意を含まれています。別世界入りの分界線で、形式上、世俗から離れる役割を果たし、お客様がこの世界に入った瞬間、世俗の雑念を洗浄し、魂も浄化されます。

門というのは一つの世界から別の世界に入る境で、この門を潜ると別の境地に入ります。

石灯籠と蹲踞は茶道と深いかかわりがあり、、本来茶庭に置く添景物であり、茶庭には不可欠な要素であり、後に他の形式の日本庭園に導入され、徐々に日本庭園の特色のある重要な一部分となりました。

茶庭には踏み石を敷きますが、さまざま敷き方があるが、基本的なルールとして、据え付け間隔は歩幅程度であります。踏み石は基本的に道の方向に沿って敷きます。左右一つずつという敷き方、一直線や曲線の敷き方があります。また、石を二つに一組、或いは三つか四つに一組にして、一直線に並べ、間に任意で他の石を敷きます。次第に、長い板状の石と一般の石の組み合わせで敷く方法もできました。どんな敷き方であれ、最終的に追求する効果は美しい、リズムのある小道を創りだすことです。

踏み石はお茶会に参加するお客様の下駄を濡れた地面に汚れることを防ぐために設置したものです。踏み石の敷く方法はかならず茶室に向けています。茶庭での活動は限定されていて、決められている道で歩くしかありません。時に、露地に木や竹壁等等の障害物をおいて、茶庭の全貌を見えないようにします。

石灯龍は仏教の献灯から発展してきたとの説があります。三角形、四角形、六角形、八角形、円形という形があります。照明もでき、添景物としても利用できるので茶庭で最初に使うようになりました。また、水は茶庭では不可欠なもので、俗世から聖域まで、現実から非現実の世界への媒体で、心身の罪を清めるシンボルとして考えられています。

蹲踞は茶庭でなくてはならない景観物で、お客様はここで手を洗い、口を漱ぐことによって心身を清められます。

日本の茶室が狭くても、建築費はかなり高いです。一つ上等な茶室を立てる費用は一般の住宅と同等な費用がかかります。茶室に使う材料や工芸やきわめて高い水準のものが必要とされます。一つ一つ些細なところや飾り物や綿密な思考が要求され、洗練された技術が必要です。

茶道はお茶の嗜みと禅の思想を融合され、禅茶一味と言われ、茶道の精神が禅の思想の一致性と相通性を強調しています。

茶道は「和、敬、清、寂」を宗旨とし、華やかなものや、賑やかのものを否定し、贅沢と見栄を捨て、内面の素朴と強さを強調し、心の安らかを求めます。

茶道は閑静と孤寂の世界を求め、素朴な自然状態を追及します。

茶道の盛んにつれ、お茶会を開く場所も生まれました。その後、お茶会を行うため独立な茶室空間も設けられました。

茶道の盛んにつれ、お茶会を開く場所も生まれました。その後、お茶会を行うため独立な茶室空間も設けられました。

日本の室町時代から江戸時代までの茶室造園思想の発展は茶室の設計に関する考え方の変化は、異なる歴史時期において儒、釈、道の思想の受け入れ度と密接な関係があります。

茶室は簡素で世間のしきたりに束縛されず、桃源郷のような世界になります。ここでこそ、美を思う存分に楽しみ、「天人合一」の文化を体験できます。

日本阿含宗和田尚子理事長ご一行来訪

2017年12月5日午前、和田尚子理事長、松本輝臣顧問を初めとする日本阿含宗代表団ご一行13名のご来訪

2017年12月5日午前、和田尚子理事長、松本輝臣顧問を始めとする日本阿含宗代表ご一行13名が、中国国際友好連絡会の岑松常務副秘書長のご同行のもと、当会を訪問されました。演覚副会長、劉威秘書長は懐遠堂にて代表団と会見しました。

演覚副会長は学誠会長及び中国仏教協会を代表して和田尚子理事長ご一行の訪問に対し熱烈な歓迎の意を表した同時に、和田尚子様の阿含宗理事長ご就任にもお祝いの意を表しました。演覚副会長は阿含宗の亡くなられた元管長の桐山靖雄長老が双方友好交流にご尽力いただいたことを顧み、ご逝去のことに深く追悼の意を表しました。今後、中国国際友好連絡会という友情的な懸け橋を通して、さらに友好交流を深め、仏法の友情を固め、双方の「黄金の絆」関係を強化するとの希望を述べました。

演覚副会長が和田尚子理事長と友好交流

劉威秘書長は次のように述べました。日本阿含宗と当協会の友好交流の歩みはまさに中日仏教交流の歴史において素晴らしい逸話だと思います。趙僕初先生、桐山靖雄先生のような古参の先輩たちの努力のおかげで、双方の30年間の仏法による友情を結ぶことができ、非常に有難いことです。先輩大徳の教えを忘れず、伝統を受け継ぎ、双方の深厚たる仏法による友情を引き継ぐことを期待しています。また、「趙僕初先生ご生誕110周年記念」の写真集に収録している趙僕初会長と桐山靖雄長老の貴重な写真を団員の皆様に紹介しました。

和田尚子理事長は当協会の温かい歓迎に感謝の意を表し、また、桐山靖雄元管長の葬式にわざわざ中国からの代表が参加されたことにも衷心より感謝の意を表しました。阿含宗が日中友好のため30年間で得られた成果は誠に中国仏教協会の多大なご協力の賜り物であります。日本阿含宗は今までずっと亡くなられた趙僕初会長の教えの指導に従い、中日仏教友好交流事業に力を注ぎ続けてきたのです。

普正副秘書長は会見を主催しました。会見後、双方は記念品贈呈し、記念写真を行いました。演覚副会長、劉威秘書長は広済寺にて日本阿含宗ご一行のため歓迎宴会を設けました。普正副秘書長及び関連担当者は広済寺の山門にて代表団を迎えました。

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