八風に吹き倒れるな

師匠は私にこう言いました。「昨日書いた文章を見て、以前よりは少し穏やかになりました。」もう一人が書いたものときたら、「それも少し浮ついていて、あまり落ち着かない感じでした。それなりの心境にならなかったら、もっともな文章が書けないです。」と言った。私はこの話を、自分が書いた記事はあまり浮つかず、落ち着いていて、ある程度そういう心境に達したと聞き取れたので、内心些か嬉しく思いました。

実は、師匠は必ずしもそういう意味ではないです。後日、現場にいたもう一人の法師とこの心境について話した時、私の書いたものにはまだ少し浮ついていて、落ち着かないところがあると師匠が暗示してくれているのだと教えてくれました。師匠の全く同じ話なのに、私たち二人はまるで違った意味に読み取れました。

こういう時になって、私は初めて自分が正念を失い、全く「無知の自己愛」に陥ったことに気づきました。師匠にはまだ名指しで称賛されていないのに、自分は既に「人為的風」に吹き倒されました。もしも本当に師匠に褒められたら、この 「強風」にどこに吹き飛ばされるのか分からなくなります。目下の業は既に清浄ではなくなり、どうやって「生死の流れを遡り、解脱の道を辿れるのか 」。過去数十年の人生を省みて、毎日のように「称賛、誹謗、毀損、栄誉、利益、衰退、苦痛、快楽」という八風に左右されるのではないでしょうか。正に「暖風薫り得て遊人醉い、直ら杭州をもってべん州と作す」と言った通りです。

今年の春節の間、師匠が布教した日に、天候が悪く、風が強くて寒いでした。布教が終わった時、私は師匠の後について少し不満げにつぶやきました。「あいにくの悪天候ですね、こんなに強い風に!」「外的の風は何ともないが、八風にさえ吹き倒されなければいい。」と師匠がにこやかに言いました。師匠の一言で自分の事に当たる時の愚痴無明、気ままな習性、わきまえのなさを分からせてくれました。この「八風」は本当に「静かに万物を潤す」ものです。

修行と仕事 《下》

我々が師匠との信頼関係が深まったためですか、師匠が我々への問題の指摘にも遠慮が見られなくなりました。子路の「人、之に告ぐるに其の過ちを以てすれば、則ち喜べり」ほどの度胸はないですが、少なくとも心から感服していて、悔やまずにいられます。これはとてもいいことではないでしょうか。

「衆生を済度するには、発心だけじゃ無理です。善法の修行に励むべきです。」師匠はまた強調しています。

「我々が仕事をすることと修行とはどうもうまく繋がらないようです。」という召集者の疑問を聞いた師匠は次のように言いました。

「何が仏法ですか」「何が修行ですか」と、なぜ皆さんに再三聞くのですか。仕事そのものが修行なのです。経歴は心を鍛えるというように、仕事自体は最高の修行です。さもなければ、毎日部屋に閉じこもって、 人や事に対面しないと、どうやって修行できるのでしょうか。」

「修行と仕事との関係は、とっくに話しましたし、『法炬』にも発表しました。普段経典から学んだことを実生活に移すのが最も大事です。そうでないと、学んだものは机上の空論に過ぎないです。」

「そういえば、私たちが長い間学んだのは教条主義ばかりじゃないでしょうか。」と私が横から口を出しました。

「早くも前に君たちに注意したのです。教条主義、書物主義って。」師匠もニッコリとしたです。

「生半可な人も少なくないです。食べたものは消化できないです。消化できないと吸収できないです。だから問題を起こすんでした。」

これはまさに大問題でした。修行と仕事と軌を一にすべきことは師僧が長い間教えてきてくださったし、我々が理論的にも認知できました。にもかかわらず、我々は依然と文字の上にとどまっているに過ぎないようです。いざという時、本能的に疲れや面倒を嫌い、引っ込みがちになり、聞思こそ修行ですと思ってしまうのはいずれも自己保護でしかないです。「習性の力はまさに恐るべし」。だが、本当の修行はこういう時にこそ習性に逆らって進むべきものです。そうでなければ、希望なんかあるはずがないです。

「自分がますます空っぽになっているような感じがします。」と躊躇を表した召集者を師匠がまた励ましてくださりました。

「何も恐れることはないです。空即ち有です。自分の不足を知るからこそ進歩できるんです。」

「居士たちはなぜ集まらないのでしょうか。今の君たちにはただ横的な引導しかないです。僧団も横的で、俗衆も横的で、だから集まらないのです。組織構成があるとはいえ、それは紙に書かれているものでしかないです。管理というのは階層性があるものです。横的なものを二つ並べていると、一個人は組織を代表することはできないです。そういうわけで、言いたいことも伝達できないし、増上縁にもならないです。」

「居士たちは互いに納得しないです。」と召集者が言いました。

「それだからこそ、説得する、宣伝引導する、調整する必要があるのです。そうして初めてもっと合理的になります。」と師匠が説得しました。

管理というのは本当に容易いことではないようです。大勢の人が協力することはそう簡単には行かず、時間が必要なのです。

「真の善知識はあらゆる衆生を所縁の対象としているものです。どの寺に住んでいるのでしょうか、どの寺で仏法を講じたのかということはその寺にだけ所属するわけではないです。自分よりもっとできのいい人がいるのかもしれないです。仏経の中にこういう公案があります。仏陀が弘法のため天界から降りたところを、みんなが出迎えに行きます。蓮花色比丘尼は帝釈に変身して、一足先に仏陀に会うようにしたところ、仏陀に叱られました。「一番先に会えたのはお前じゃないのですよ。須菩提なんです。」須菩提尊者はその時どこにいるのかというと、とっくに洞窟で入定し、空性を観じているのです。だから仏陀が言うには、「若し色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行ずるものにして、如来を見たてまつること能わざるなり」と。仏法と相応しているからこそ、真の意味の善知識と相応できるということです。

真の善知識はあらゆる衆生を所縁の対象とするのです——師匠はまた特にこのことを持ち出した。これは弟子の皆がよく考えるべきことであると思います。

師匠がお忙しいところを見ると、私たちはおいとましようとした。我々召集者のプレッシャーがまだまだ大きいことに気付くと師匠がまた慰めてくださりました。「大丈夫だよ。法会は成り行きに任せよ。一切は業感縁起なんだから、すべてのことは皆の共業だ。力を尽くせば結構です。」

「今度こっちに来たら、質問をするばかりじゃないです。方法も考えて解決案を見つけ出すのです。毎日これほど多くのことを熟さないといけないものの、またいろんな問題が出されるなんです。」

「仏誕、灌仏会のお祭りはそれほど大人数大規模にやらなくてもいいんです。仏法を学ぶためのもんだから、世間でいう娯楽ではないです。世間の人は気勢を張るためにやるのですが、我々はそうじゃないです。」

「自信をもってやりなさい。問題があるのは成果がないわけじゃないし、成果があるとしても問題がないわけでもないです。」 と師匠の言葉を聞いて、その慈悲を感じました。その慈悲は世間の気配りや挨拶といったようなもんではないです。弟子たちが一日も早く成就するために受け持つ機会を作り出したり、負担をかけたりすることによっていろいろと手を取って教えてくださる慈悲なんです。そうすると、我々の生命の中に確実に成長するものがあります。このような練磨がなかったら、仏法はただの良き気晴らしに過ぎず、我々の生命に刻むような真実味がないです。

仏法を弘通しよう

昼食の後、師匠が丈室を出て、正殿の新しい所在地の地形を見に行きました。師匠の話によると、実地の調査をよくしたほうが、心に感覚が湧きやすいです。空は曇っていて、気温はやや低いです。真昼なのに、初春の寒気はまた服を抜かして、肌に入り込もうとしています。師匠は私達を連れて、幅半メートルもない小路を通って、この棘だらけで、清浄で、そして荘厳な山地に入りました。師匠は前で道を切り開き、道中で刺がついているサネブトナツメの木が私の僧服を引っ張り、足で踏みつけました。仏法を学ぶ道も、五欲の境界が私達にイバラな手を伸ばし続け、もし捉われたら、傷つけられるだろうと、私は思いました。仏様、菩薩と善知識は前でイバラを切り除き、唯一の道を切り開いたので、諦めずに善知識と緊密になれば、やがてこの荒れた人煙もない棘の林を歩み抜けるでしょう。

地形を見た後、師匠は「ここがお寺を建てるいい所だ」と言い出しました。師匠は歩きながら、どこの土を掘ってどこへ埋まるべきや、正殿の一階が居士の「斎堂(寺院の食堂)」にふさわしいなどの意見を言いました。戻ってきた時、多くの居士は師匠に頂礼しました。ある女性居士がどうしても自分の七歳の息子を師匠の弟子として供養しようとして、師匠はその好意を承り、年齢がまだ小さいと言って同意しませんでした。午後、ある五、六歳ぐらいの子どもが長い時間で貯めたお小遣いを師匠に供養しました。跪いて自分の小さな手で一束の小銭の札を頭の上にあげているのを見て、その敬虔の様子が感動的でした。師匠も彼女の善根に称賛を与えました。

夜は春節期間中師匠が行った九回目の法話でした。法話を拝聴した後、私たちは師匠と一緒に丈室に行きました。師匠が次のように言いました。「私たちは同じように仏法を学習している、だが私は長時間をかけて思惟して、悟りに辿り着きました。長期間の出家や聞思の経験がなければ、一般の人の考え方が依然と硬い。私は、今回の講演が終えた後、僧衆たちが大きな進歩を得られ、信心も成長することに自信を持っています。先に勉強する人が良くできていれば、後からの人を引っ張ることが簡単になってきます。私たちは無形無相の仏法を有形有相な言葉と事業をもって表現し、継承していきます。個人の名を上げるためではありません。春節前、私は代表団を率いて、七時間飛行機に乗ってインドのナーランダに行って、玄奘法師記念堂の開光法要を司りました。私は感無量でした。玄奘法師は数え切れない苦難を乗り越え、中国から密かに出てインドに行って法を求め、帰国後、彼は宗派を開いて、中国仏教の仏経翻訳に偉大なる影響を与えました。1300年後、私は彼の記念堂の開光法要を行い、感動の一方、これは何という深い因縁であったとも感じました!」師匠が最後の一言を語調を強くして言いました。それを拝聴した後、師匠が「努力を重ねれば、仏法が我々世代の手でより一層の光を放つ!」を言っているように、私は思えました。

修行と仕事 《上》

夕方頃、法師はちょうど、徳尘居から来て、「師匠はもう戻ってきました。」と、言いました。

急いで師匠のそばに駆けつけ、ちょうど[灌仏会]の僧衆の世話役も師匠の部屋に行こうとしていて、それで二人一緒に入って行ったのです。

師匠は药石を食べていて、世話役は横から質問を問っています。まず、本堂建設のための資金調達の問題です。

「みんなはお寺の仕事には積極的ではないらしい」と、法師は言いました。

「定められた仕事は、根気良く前に進め、効果が出るまで頑張るのです。」と、師匠は言いました。「本堂のことは、まず僧衆と中堅ボラティアの知見の問題を解決しなければならない:一、本堂を建てる必要があるのか?二、本堂はどう建てるのか?。どんなことをしても願望だけではなく、能力も必要です。」

「財がないと道が養えない」という諺通り、こんなに多くの人がいて、食事、宿泊、医療など、収入源がないといけませんね?祈りだけに頼って、自ら努力しないのも駄目で、もし願えば、韦陀菩萨が送ってきてくれるならいいですが、でないと、願うと同時に、自らも努力し、そうしないと、どうやって成功しますか?それは不可能です。」と、師匠は言いました。

ぱっとそれを聞くと、とても急な感じがして、、なぜなら、僧団が戒律を重視するので、普段自分が他人に財物のことを話したくないです、たとえ三宝を供養しても話さないです。しかし、心を静めて考えたら、自分が物事を見る時、とても偏っているのです。出家前、自分はお金について話すのが余り好きではなく、それがとても俗っぽいと思っていました。出家してから、僧団に保護されて、個人がお金を持たないように定められて、すべての供養は一律公のものとなりますので、自分はなお更そんなことを考えたくないです。今日は師匠のお話を聞いて、問題は確かに一側面だけ見てはいけないと思いました。

どう言ったらいいですかね?もし、ただ個人の修行なら、確かに世間の財、色、名、食、寝などに縛られないで、清浄になればなるほど良いです。しかし、もし大乗の師匠に付いていて、団体の事業のために、責任を負うべきことは積極的に責任を負わなければならないです。実は今、全ては師匠に支えられています、子供が勉強するように、一心に勉強して、どのようにお金を稼ぐかを考える必要がないですが、その父親なら違います、全面的に家の経済状況を考慮しなければ、家族全員が飢えて、安心して勉強なんかできないのです。昔、大学に行くまで、父親に読書人の気質が強いと言われ、それに不服で、人は少しこのような精神を持つべきと思っていました。後に就職して、独立生活してから、多少親の苦労を感じ取れました。今、師匠は我々の親で、我々は如何に師匠の苦労を分担できるでしょうか?確かに思想から変えなければなりません、個人だけ注目するような小乗の習性から脱皮し、大乗の枠組みを育成しなければならないです。

実は、居士供養、三宝の護持、僧衆一心の修行、そして仏法で人の恩恵を報じて、これはブッダ様が私たちに設けた最も良い相互連動のモデルです。ただ現在は末法時代に至ったので、みんなが如何に取捨するか、分からなくなったのです。

世話役はさらに法会におけるいくつかの困難を言及しました。 師匠は、「主な原因として、あなたたちは事情を煩わしくして、大きいことや全体のことなどを把握できていないからです。現実的な意見を多く出して、それから誘導と啓発をします。」と、言いました。

「法会の中では、理屈を言う人がいたり、仕事をする人がいたりして、時に仕事をする人がもっと重要です。兵馬が動く前かないで、食糧が先行するように、もし彼らがいなかったら、ご飯も食べられなくて、良く眠れなくなりますので、法会はどう成功するのですか?もちろん、彼らを引っ張る必要もあり、彼らの基礎を観察して、そうしないと、あなたの話は全くリズムに合わず、絶対彼らの耳に入りません。」

我々が法会の多くことに対する配慮は足りないようです。

世話役は、「法会中、みんながとても疲れたようで、一ヶ月に二回の法会で、多くの人が逃げそうになりました。」と言いました。

師匠は、「それは何が疲れているんですか?社会で仕事する人は誰もこうじゃないですか?肝心なのはみんなの心が散乱で、仕事への集中力がなく、心がけも足りないです、あるいは、どう心がければいいかがわからないです。それで、心の力が持続できず、つながらないですので、とても疲れやすいと感じてしまいます。大学の先生や工場の労働者のように、毎日出勤して仕事をします。人間は本来毎日業を作ります、そうしないと何をしますか?」と言いました。 世話役は、「彼らは恐らく煩悩を解消して、気分が良くなったらまた仕事を再開するでしょう。」師匠は、「団体の意識がキーポイントであり、主人公の意識ができていないですね。例えば、人はお腹が空いていると食事をして、寒いと感じたら服を加えて、暑いと服を脱いで、眠くなると寝ます、これはとても自然なことです。みんなが面倒なことが嫌いで、そんな苦労することをしないで、これらの問題は私は過去の法話で言った事があります。」と言いました。 世話役は「みんなはまだ消化していないでしょう」と笑いながら言いました。

師匠は、「仕事のポロセスはよく配置して、例えば、仏事登録組が4時間交替にして、こうするとそんなに疲れないです。結局はみんなの素質をまだ高める必要があります。」と言いました。

世話役は「自分は何も知らないらしいので、状況に対する反応もできないです」と言いました。

師匠は、「あなたがわからない時、私に聞くといい、あなたは勉強する心がないです。あなたたちは知識人として、出纳と会計などを触ると頭がいたいです、これらは修行と関係ないようで、仏法でもなく、ただ教室の中でお経を読むことが仏法だと思っています。」と言いました。

成長の楽しさ《2》

オリジナルタイトル《見聞覺知を師と共学》[171-2007-0415]

そうですね!私は何を心配しているのでしょうか。何を求めているのでしょうか。分からなかったら教えてもらえばいいんじゃないですか。なんでも勉強という気持ちでやって行けばどんなに楽しいことでしょう。いつも師匠の衣鉢を受け継いで、有情のために仏になるようと言い張りながら、いざという時、前へと進まないのです。結局のところ、自分のメンツのためなのです。

「仕事に自信がないところを見ると、お前は『楞厳経』の殊勝には認識が足りない。『楞厳経』の中国に伝わる経緯を振り返ってみては感動しない?」

「『楞厳経』はずっとインドに国宝として重宝されてきたが、当時には外部に流すことは許されなかった。昔、インドへ参学に行った中国僧はこの経を見ることができなかった。玄蔵法師も十七年間のインド滞在中に見たことがなかった。隋の智者法師は『法華経』を説いて、法華三昧を体得し、天台教観を創立した。当時、一人のインド法師が智者法師の天台止観を見て、「楞厳」とよく似ていると言った。智者法師はそれを聞いてから天台に拝経台を建て、毎日西方に向かって礼拝し、『楞厳経』が一日も早く中国に伝わるようと願って円寂まで十八年経っても、『楞厳経』を目にすることができなかった。百年余り過ぎて、唐の時代になると般刺密帝尊者は何度も『楞厳経』をこっそりと中国に持ち帰ろうとしたが、インドの税関に差し押さえられた。仕方なく尊者は数年かけて経典を小冊子に書き上げて、それから、腕を切り、肉の中に隠し、それから縫い合わせて、傷口が治ったら、またそれを持ち帰って、やっと『楞厳経』を中国に伝えた。」と師匠は言いました。

この歴史を振り返ってみるたびに、私は心を驚かされます。「般刺密帝尊者がいないと、私たちは『楞厳経』を学ぶことはできないんです。」

「あれほど大きな危険を冒し、あれほどの苦痛を堪える尊者を見ると、法会という小さな困難は比べられるもんか」と師匠は言いました。

本当にお恥ずかしいこと!

仏法を学ぶ目的は心に尽きることのない力を育むことにあると師匠はよく言っています。どうして尊者はあれほどの大きな動力と勇気を持っているのに、私たちは持っていないのですか。

「普段、学んだ道理は実際と結び合せて初めて有用になる。そうでないと机上の空論にすぎない。」

「ごもっともです。私はいざ仕事をすると混乱してしまいがちです。ますます仕事の重荷を引き受けることの大切さが感じられます。」

「実は理論、修行と仕事は三位一体。例えば、科学技術には世界を解釈する理論があるが、もし解釈に止まれば、あまり役に立たない。肝心なのは科学には創造と発明がある。発明が出されたら、その影響は深遠なるものだ。仏法の場合も同じく、世界への解釈があってから、また創造、自分の業力を創造して、仏法の世界を創造するのだ。」

「確かに私たちが実際にやったことは少ないです。」

「多くの人は目の前の事を大切にしないで、他のもっと良い事に心を掛けている。そのことをするとなると、また大切にしなくなる。しかし、仏法が強調しているのは目下の造業なのだ。つまり、自分が今何をやっているのか、何の業を造っているのかよくわかっている。実はとても簡単な事だ。もしどこかに行って、何かの活動に参加したら、身の業ができ、話をしたら語の業ができる。とても実在なものだ。」

「今を生きるのは難しいです。」

「さもないと、毎日授業や検討をすることは教法を作り上げることになるか。例えば、私たちは一度法話をした。それは教法を作り上げることと見なせるか。そうとも言えるが、しかし、毎日法話ばかりしていて、実務をする人や後方勤務をする人がいなかったら、どうなるか。どうやってお経をあげられるか。どうやって食っていけるか。これは分かり切った道理ではないか。だから、私たちは一所懸命仕事をして、様々の縁起を起こすことによって仏法的事業を達成しようとする。」

「今、仕事をすることに自信が芽生えてきましたが、まずやって見ることにします。」

「まずやって見るのは間違いないが、誰を相手にやっているのか、誰と一緒にやっているのか、誰を率いてやっているのかはっきり分からないといけない。世の中では仕事をするのに一つのルールがある。仏法の世界でやるのにも同じくルールがある。つまり、経験のある人から学ベば初めてよくできる。これこそ仏法のいわゆる受け継ぎという。」

私はうなずきながら、内心、さらに大きな自信が湧いてきました。

あと半月ぐらいで、“五・一法会”が始まります。これは私にとって絶妙な心理体験になります。多くの未知な事やわけがわからないプレッシャーに直面しなければなりません。しかし、これまでの経験が教えてくれるように、仕事が済んでいたら、心の中には確かな収穫と喜びが得られます。できそうにないことを引き受けてこそ福を増大することになると実感しました。自分がよく知っている事、慣れている事、簡単そうな事、プレッシャーのない事を好んでやりがちですが、しかし、それはただの重複、ただの輪廻にすぎません。仏法というのは本当に見事なものです。果てしない未知の世界に向かって歩いていくことを助けてくれる人も、方法もあります。一足歩くたびに、暗闇から光が見えてきます。一足歩くたびにそれなりの楽しみがあります。私は今、菩薩の喜びの境地を信じるようになりました。仏に成るには三大の阿僧祗劫があると言われていますが、でも、時々刻々に成長の喜びに満ちていたら、その時間がたとえ長くなっても、また何を恐れることがあるのでしょうか。

しかも、私のそばには確かに師僧がいます。よくわかってくださるし、いつまで経っても私の成長を見てくださるから、私は何を心配することがあるのでしょうか。

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