我々は世の中で生活し......

我々は世の中で生活し、過去の人々が努力された成果を享受している。

例えば、沢山の樹木は、すべて過去の人が植えたもので、沢山の建築は、過去の人が建立したものである。同様に、我々が成したことは全て、未来の人々に影響するのである。常に我々と外在の人、物事、物品との関係を観察し、思考し、自分自身を時空の環境に融和したら、情緒の渦から容易に脱出でき、よりよく積極的に光明な人生観を持つようになる。

 

人は皆、状態の起伏がある。一番肝心なのは、低迷する状態に囚われないことである。その理由を追求するよりも、すぐにすべきことを成すことである。

 

たとえそれが聴聞だとしても、思考でも、心中に入り込んで、煩悩や無明を破り、心中をますます清らかにさせ、光明に向かせ、より智慧を持たせるのが目的だある。外在の人、事、物と環境に対しての観察力がより強く、より鋭く、またより敏感になっていくうちに、内心的な力もますます強くなっていくのである。

 

仏法は力のごとく:今日の力は明日まで持っていけないのである。今日その力を使い切っても、明日はまた同じ力を持っている。明日もっと強くなっているかもしれない。仏法の習得も同じで、それは内心の力を養うものである。

 

私達は仏陀を学んで、仏陀は覚悟で、覚悟は一生の大事、生死の大事、1日の大事とひとつの想念の大事の全てに十分に察知し、気づく能力である。

我々は混沌している心......

修行は、御仏様とお引き取りすることではない。

私がこれほど読経したらどうなるだろうとか、

私がこれほど礼拝したらどうなるだろうとか、

私がこれほど呪文を称えたらどうなるだろうとか、

それは完全に間違っていたのである。

業と言うものは、数量や体積で現すものではない。

あなたの心の中に、この力を集約していけるか、

つまり、聖賢への、仏陀への傾きの力を。

この面から育てなければならない。

 

私達は、遥かな時間をかけてようやく私達自身の心身ともに、一種の善的な、基準に合った、仏法に沿う行いの習慣を養成できることである。然し、目下私達が、まだ一種の習慣になっていないので、この基準に基づき、この規則に従い、徐々に私達自身の心身ともに、基準、規則のある行いの状態に成り立たせるのが必要である。

 

私達は、容易く仏教における様々な修行する法門の外在形式の違いを、これらの法門の異なりに等しいことはできない。すべての法門は最終的に仏法の本質に辿り着く。まるでお寺の中に沢山の門のあるように、これらの門は私たちに仏法の奥義に行かせ、見行堂、斎堂、仏堂に入り込ませるためにあり、同じ役割になるのである。それぞれの一念に固持して、外在の形式しか見えず、形式の本質の意義を見落としてはいけない。

 

我々が様々な儀礼規範を修行することは、ただ修行の方法で、修行の目的ではない。 我々の目的は成仏することであり、この一種の方法は、より多くご奉仕、精進することに必要である。

 

我々は混沌している心を徐々に清らかにさせ、粗い心を次第に細かくし、浅薄な心を一歩一歩と深くさせていくうちに、心の中に最も深いところの境界が見えて、我々の思想が一体何だかがはっきりと認識できてることによって、我々の心は、ますます鋭く、繊細、活発になり、ますます力強くなり、ますます師・法・友に、三宝に、御仏様・菩薩の境界に応じ合っていくのである。

因果は三世を通じて……

因果は三世を通じて、善悪の報いが必ずある。報いがないということではない。
時機が今だ到来していないということ;苦痛はただ心境である。苦果の成熟時、自分の心が変わるなら、苦痛も減少し、ひいては消える。知恵のある人にとって、苦難は人生の財になり得る。肝心なことは自分がどのように応ずるかだ。

 

ある事柄は必ずやる、ある事柄はやってもやらなくても支障がない。ある事柄は他の人に頼むことができる、ある事柄はやる必然がない。このような選択は必ず起こり得る。そうしなければ疲弊する。皆さんは修行と自分の責任を対比させないでほしい。本来一体なのだから。もっとも肝心なことは発心なのだ。発心しなければ何人(なんびと)たりとも無理なのだ。やるべき事な真摯に、果敢にやるべきなのだ。

 

毎日進歩する。「今年は去年より」「今月は先月より」「今日は昨日より」「現世は前世より」。少しでも良くなる。生生世世増上、絶え間なく進歩し超越し成長する。

 

私たちは必ず仏教整体の行方の視点でいろんな仕事を考え、道次第の殊勝を認識する個人、団体と仏教整体の視点で考えることは不同の視点からである。どんなに仏法を広げようとも、個人の修行と混同して論ずることはできない。

 

仏教に対し発心すれば、功徳があるどの人も自分の縁起を持っており、強要することができない。例えば、この部屋の人は、それぞれ独自の思考を持っており、あなたは真似をすることはできない。

 

対立的な考え方を以って外部の不如意だけに注目しないでほしい。その中で何ができて、どのようにできたかを考え、さらに発奮する心を練磨することが肝腎なのだ。

自分の中にある煩悩……

自分の中にある煩悩を知らなければ、いつまでも他人の煩悩を知ることができない。煩悩は、ただ自分の内心にだけあるのではない。

 

修行に早道はありません。あまた、それぞれの過程で自己を見つめ、反省し、勉強し、改善し、そして成長しなければならない。

 

修行で重要なのは実践です。実践が伴わなければ、何度読んでも、仏法を読み取ることはできない、と師匠が言われた。

 

世間の“悪”とは、唯一内心の貪・瞋・癡です。その“悪”を超越するには、自分の心を超越するしかありません。

 

生命の価値を決めるのは自分の心です。発願し苦心するかぎり、平凡な人も非凡になれます。

 

なぜ成功者は成功したか。それは、他人にはわからない道理を、わかるまで極めた故のことです。

 

どんな事をしても……

どんな事をしても、難しいか否か、苦しいか否かに関わらず、意味がある限り、やるべきである。仏法を学ぶ意味を思料し、初心を忘れないことが肝要である。

 

ものごとに臨む際、他人のこころを考えるべし。人を論ずる前に、自らを反省する。そうすれば、自らの煩悩はしだいに減ずるであろう。

 

修行は、ただ学書どおりに行うことではない。もっとも大切なことは、人の教えを倣い、信心であろうと願であろうと、さらに観照であろうと、回心であろうと,すべては心の成長に帰する。それらは人によって伝えられる。

 

我々はよく他人の「得」を自分の「失」とする。これは「内心」と「外心」の成せるところ。

 

善行は他人の感謝と賞賛を得るためではない。全体、自らの意志である。

 

道理は、聖人の教えである。私たち、自らの工夫ではない。道理を知ることを初歩とする。もっとも大切なことは教えを倣い、境界の中で絶えず学ぶこと。自らの心を成長させるために。

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