黄金の絆

——趙僕初居士

趙樸初居士は、1907年11月5日に安徽省太湖県に生まれました.若いころは、蘇州の東呉大学で勉強しました.1928年から上海江浙仏教連合会の秘書、上海仏教協会の秘書、「仏教浄業社」社長等の職を歴任しました.1938年から、上海文化界救亡協会理事、中国仏教協会秘書•主任秘書、上海慈連救済戦区難民委員会常務委員兼収容主任、上海浄業浮浪児童教養院副院長等の職を歴任しました.1953年から、中国仏教協会副会長兼秘書長、中国作家協会理事、中日友好協会副会長等の職を歴任しました.1980年から中国仏教協会会長、中国仏教学院院長、中国チベット語高級仏教学院顧問、中国宗教平和委員会主席、中国書道家協会副主席などの職を歴任しました.

趙先生はまた、第一、二、三、四、五回の全国人民大会代表でありました.愛国宗教界の代表として、中国人民政治協商会議の第一回全体会議に参加しました.第一、二、三回の全国政治協商委員会委員を歴任し、第四、五回全国政治協商会議常務委員であり、第六、七、八回の全国政治協商会議の副主席を歴任しました.

趙先生は中華人民共和国が成立して以来、中国仏教界の主要指導者であります.半世紀にわたり、趙先生は終始一貫して、仏教の中国現代社会との適応化を模索してきました.仏教はどのように「愛国と愛教」の道で調和できるか、仏教はどのように現代社会に役に立つかというテーマを巡って考えてきました.何十年以来、趙先生は中国仏教界をリードして、政府の宗教の信仰自由政策の着実な実行、僧侶管理制度の健全化、仏教の国際交流などの方面に極めて重要な貢献を果たしました.趙先生は中国共産党および中国政府と肝胆相照らし、栄辱を共にする友であり、中国の広い範囲の信者達に尊崇されている指導者でもあります.また、趙先生は高く評価されている社会活動家、詩人、作家でもあります.

2000年5月21日に、趙先生は享年93歳で逝去しました.趙先生は晩年、体が弱く、多病だったにもかかわらず、慈善事業に熱意を持って、よく自然災害被災地に救済募金活動を行いました.自分の原稿料と一生の蓄えを全部慈善事業に使用しました.生前、自分の遺体を医学機関に献体するようにという遺言を書きました.また、死後、遺灰も残さない、骨壷も要らないと希望しました.「生固欣然、死亦無憾.花落還開、水流不断.我兮何有、誰与安息.明月清風、不労尋筧」という四言詩も書いて、仏教徒としての死生観を表しました.

中日仏教文化交流の架け橋を再び作り、両国民間外交を促進

1952年、北京で開かれた「アジアおよび太平洋地域の平和会議」の際、 趙樸初先生は中国仏教界を代表して、日本の仏教界に薬師如来仏の仏像を贈与しました.これは日本の仏教界の友好人士の間で、大きな反響を引き起こしました.

1953年初め、日本の仏教界の友好人士が連名で、中国仏教協会に返信しました.書簡の中に、中国人民に厳しい災難を及ばした侵略戦争を阻止できなかったことに懺悔し、また、両国の仏教界の友好関係を再び結びつけることを強く希望するとの内容がありました.

1955年に、日本で開かれた原水爆禁止世界大会に趙樸初先生が出席しました.その後、1957年に再び会議に出席しました.趙樸初先生および中国の代表は会議に参加するという機会を利用して、日本の仏教界の人士と広く交流しました.

「文革(文化大革命)」後、趙樸初先生と中国仏教協会は積極的に日本との仏教文化交流を展開し、両国人民の理解と友情をさらに深めました.

 1978年4月、趙樸初先生を団長とする中国仏教協会訪問団は日本に3週間にわたる訪問をしました.これは「文革」後中国仏教協会の初めての日本訪問であり、空前の成功を収めました.

「黄金の絆」再び取り上げ、東アジアの仏教文化交流を推進

1993年趙樸初会長を団長とする中国仏教協会代表団は、日本側における中国仏教協会設立40周年記念活動に参加するため、日本訪問しました.韓国の仏教界の代表も会議に出席しました.趙樸初先生は挨拶に、「中、日、韓三国の仏教文化は私たちの三国国民の黄金の絆であり、この絆を大切に守り、引き続き発展させなければなりません.」と述べました.趙樸初先生のこの三国仏教の「黄金の絆」という比喩と三国仏教の友好交流を発展させる構想は、直ちに韓国と日本の友人に賛同と共鳴を得ました.三国の仏教界の代表がともに相談し、準備し、「中、韓、日仏教友好交流会議」は1955年5月22日に北京にて成功裏に開かれました.

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