悟りへの道を歩む人生
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諸法師方、在家信徒の皆さま: 皆さんがお寺に来られる目的は、仏の教えを学び、仏の教えのもとで、自分自身の習慣や癖を直し、修行によって、円満な福徳と智慧といったみのりを収めて、お釈迦様のように悟りを開いて、仏陀になるためでしょう.ひとくちに修行といっても、それは容易なことではなく、大変な月日を積み重ねて長年にわたって、はじめて成し遂げられるものなのです.修行しようとするならば、その前には帰依しなければならないし、受戒もしなければなりません.いわゆる、修行するということは、帰依と受戒を前提としていますが、帰依と受戒がなぜ修行するということにこんなに深く関係しているのでしょうか.皆さん、下記の問題をちょっと考えてみてください.われわれ人間はなぜこの世に生まれてきているのでしょうか.何のために生きていくのでしょうか.つまり、どんな理由で、この人間の社会に生まれてきたのでしょうか.総じていえば、この世間に生きている理由は何ですか.また、その目的は、どういうことなのでしょうか.以上の質問は、仏教の信徒としてのわれわれにとって、注目すべき、議論すべき、そして解くべき課題なのです. 皆さんは、仏教に帰依する前は、家庭といった世間に暮らしていますね.世間にはそれなりのさまざまな基準や価値観、それに、人それぞれのライフスタイルをもっていますよね.日々をおくって日常生活しているとき、時には苦しみを覚え、時には楽しみや、喜びなども感じていますね.でも、多くの場合、苦しみの中に楽しみがあり、逆に、楽しみの中に苦しみも入り混じっています.そして、苦しみが多くて、楽しみがすくないので、苦しい場合の方が楽しい場合より多くて長く、楽しいほうが永遠にすくなくて短いといいきれるのでしょう.そこで、お寺に来て、こういう問題を解決しなければなりません.いかにして楽しいのを長く、苦しみは短く、しだいに苦しみをすくなくしていって、最後に、苦しみをすべてなくす方法を考えましょう 帰依というふたつの文字の意味は、自己の身心を帰投して、依伏信奉するということです.具体的には、どんなものに帰投し、依伏するのでしょうか.すなわち、仏•仏の教え•教団という三宝に帰投し、依伏するのです.たとえば、世の中では、よく自然災害がおこります.台風で家が倒れたり、地震で壊れたり、火事で焼けてしまったりして、ご家族の皆さんは住むところが無くなり、食べ物もお金も無くなりました.こういう場合はどうしたら良いでしょうか.親類や友人からの助けとバックアップを求めます.つまり、帰投、依伏しにいくのです.このような行為は、現実社会に生きているわれわれが日常生活の中で、物質的な問題がおこったりして、酷い目に遭った時、他人に助けを求めることはごく普通のことなのですね.しかし、人間が生きて行くために物質的な要求を満足させることだけではなく、われわれ人間として抱えている悩みとか、欲望とか、苦しみなど、こういう精神的、心理的な問題をも解決していかなければならないのですが、これらの問題を解決する方法を考えて探してみたところで、見つからなかったのではないでしょうか.ところが、お寺にある仏•仏の教え•教団という三宝こそ上述のような問題を解決することができるのです.二千年あまり、たくさんの人々がお釈迦様に帰依して、弟子になったことのおかげで、身心ともに世俗的な束縛から解放され、自由自在な境地に辿りつき、人間としての生命の意義を最大限に叶えてきました. われわれは人間としてこの世に生まれ、それぞれ五体満足、さらにご両親から名前もつけてもらっています.生まれたときの体そのものには何の問題もありませんが、その体を持っているわたしたち人間は過ちをおかし、悪いことをします.そして、まわりのわれわれと直接、間接に関係のある人にも、悪い影響をおよぼし、迷惑をかけ、紛争までおこしてしまいます.そうすると、大きな問題になるので、悩みの種にもなります.もし、われわれが自分の体、手、足、目、耳、口という器官をもち、良い話をして、良いことをして、正しく行動すれば、まわりのたくさんの人々にも良い影響を与え、利益をもたらしてあげられるでしょう.なぜ、われわれは上述のような正反対の行動をするのでしょうか.仏の教えによれば、その原因はわれわれの心に潜んでいるそうです.総じて申しますと、すべては心の奥底にあるのです.普段、人々は国家や、人民によく奉仕する人にたいして、人徳があるとか、品行方正とか、人徳が高いとか褒め称えられるに違いないのですが、仏教界ではよく良いことをしている人は善行があるといい、たくさんの悪いことをしている人は悪行があるといっています.善の行為をすれば、善業になり、悪の行為をすれば悪業になります.善の行為は自分自身ばかりではなく、他人にも良いことをもたらし、愉快な気持ちを引きだします.逆に、悪の行為は自分自身を、また他人をも辛い方向に導いていきます. 世間では、人を助けてあげたら、自分が損するとか、利他のことをすれば、自分に不利になるといった、もっともらしい考え方をわたしもよく耳にしています.このような視角から認識すれば、人を助けることは間違ったことで、決してするべきことではないということになります.ところが、仏の世界では、仏の教えからみれば、まったく違う結論がでてきます.すなわち、人を助けるということは良いことでなすべきことですから、そのことによって愉快な気持ちが生まれてきます.以上の二種類の考え方を比較してみれば、世間の通説では、人を助けもせず、利他のことをもしないで、自分自身が快楽になるのが何によりいちばんだと思われています.仏教の世界では、他人を助けて、利他のことをしてこそ、はじめて、自分自身に喜びをもたらしてくれます.仏のひとつの重要な教えに因果関係論がありますが、この理論を重要視しなければならないのです.なぜかと申しますと、それは、われわれの行為の選択という問題にかかわっています.つまり、利他のことをするのか、人を助けることをするのか、それとも人を助けないのか、利他のことをしないのか、いったいどのように選ぶのかの問題なのです.また、家にいても会社にいても世間にいても、つねに利己主義に支配され、いつも得か損かという打算的な考えに基づいていて、損になることを心配していますから、甘い汁を吸おうと考えているのです.このような自己本位の考え方はいけないのです.皆さん、考えてみてください.われわれはどんな原因で、なぜそのような考え方をもっているのでしょうか.なぜこのような考え方によって、利己的行為を選択したのでしょうか.われわれはその質問に応えられません.さらに追求していくと、なぜこのような選択をするのか、なぜこのようにして暮らしていくのかと、自分でもわかっていません.わからないということは自分自身に問題があり、仏教の言葉でいえば、「無明」、 「無明状態」といいます.皆さんがお寺に来られるのは、長い間、心の奥底に解決しようと思っても、解決できない問題を解決し、こころから苦しみと悩みの原因を究明し、そして、自分で考えようと思っても明らかにできない問題を解くためです.皆さんはこのように考えたことがありますか.どうして自分が苦しみや悩みといった心理的な問題を究極的に解決できないのか.みんなが学校であれ、社会であれ、学んだ知識はすべて世間法といわれています.世間法とは、世間の理屈、筋道に沿ってできているものですが、仏法というものは世間法と出世間法とが含まれています.仏教の言葉で世間法を「俗諦」といい、出世間法を「真諦」といいます.いかにして「俗諦」の土台にいながら「真諦」の悟りを開くかが、われわれの努めていく目標なのでしょう. |
